涼の言う通り、今度は肖像画の並ぶ一画に入った。
 クリムトは肖像画家でもあり、ウィーンのユダヤ人ブルジョアの、夫人や娘を描いた絵が多数残っている。
『マーガレット・ストンボロ=ヴィトゲンシュタインの肖像』
 これは、クリムトのパトロンで製鋼会社の経営者である父が、娘の結婚祝いにと注文した1枚である。結婚前の女性を包み込む純白の婚礼衣装は優美で、レースの手触りまで伝わってきそうだ。自然で、清楚な描写だ。ここには、デッサンに見られるようなエロティックさは感じられない。

『フィリッツァ・リートラーの肖像』
 この絵は、やはり白い衣装を身に着けた女性が佇んでいる。クリムトの描く肖像画の婦人は、何故か皆白を身にまとっている。この絵は先ほどとは違って、婦人の表情の中に不安が見て取れる。この時代、オーストリアの富豪たちは没落に怯えていた。より深くモデルの心の中に入って描かれたのではないだろうか。白い衣装の下に、様々な感情が押し込められているかのようだ。何より特徴的なのは、装飾化された扇形の帽子やソファーだ。クリムトは肖像――写実の中に、装飾――抽象を取り入れ、それを完成させた画家で、そのデザインは時折性的なものを感じさせる。こういった肖像画の中にさえ、”女”を表現せずにはいられなかった、ということか。

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』
 ここに至ると、写実と抽象との融和は顕著で、見る者を圧倒させる。手を組んだ夫人を取り囲む、この金箔の群れはどうか。まるで空間恐怖症ともいえるかのように、彼女の周りを覆い尽くしている。この時代のクリムトの絵は「黄金様式」と呼ばれた。そしてこの中に描かれる渦巻きや三角の目、袖に見える流線も、性的なものを暗喩している。もっとも自分は、”女”に対して性的なものを感じることはないのだが・・・。

 これらの肖像画は、清太もまともに見ている。こうして自分が美術的な思考に没頭している間も、表情や衣装の細やかさに目を留めてくれている。涼はここで、彼に感想を聞いてみたくなった。
「・・・どうかな? こういうのは・・・」
 と、清太は『アデーレ』の前で、絵から目を離さずに言った。
「すごいね、この金色・・・。きれいだけど、涼が見せたかった絵ってどれ? まだ?」
「ああ、それは最後のほうなんだ。先、進もうか」
「うん」

 しかし、次はクリムトが最も得意としていた”寓意画”――あくまでも女性をモチーフにした――の間だった。清太は身を竦ませた。
『パラス・アテネ』『水の精』『ユディトT』―――クリムトの描く女性像の一角をになう、「ファム・ファタル」の取り巻く場所だ。
 「ファム・ファタル」とは、フランス語で”宿命の女”を表す語で、男を誘惑し虜にし、破滅へと向かわせるタイプの女を指す。世紀末のヨーロッパ――の男性――は終末の不安を抱え、女性の社会進出に脅威し、こういう女性像を恐れながらも憧れ、生み出す風潮があった。このファム・ファタルに代表される「世紀末象徴主義」は美術だけでなく、文学や舞台の世界にも渡った。
『パラス・アテネ』
 黄金様式の中の1枚であるこの絵の女性は、金色の鎧を身にまとい、金色の杖を左手に持ち、見開かれた瞳で見る者を――おそらくは男を――見据える。赤い唇と髪が示すものは、”女神”ではなく”現実に生きる生身の女”だ・・・。
『水の精』
 美しい歌声で船乗りを誘惑し、死へ導くという妖精セイレーンを描いたものだが、女の顔だけが髪とも藻ともつかないものに覆われ、不気味な笑みを湛えている。まるで、獲物を見つけてその喜びに打ち震えるように・・・。その黒い二体の生き物は、緑色をした水の泡の中に漂う。

『ユディトT』
 ここに至ると、クリムトの性的表現は一気に開花する。あからさまな性的恍惚感を湛えるその顔は、鑑賞者が戸惑いを覚えてしまうほどである。「ユディト」とは、敵側の大将のテントまで行き、その男を誘惑し、首を切り落として自分の町に持ち替えった、ユダヤのヒロインであるのだが、クリムトはまたも”女神”ではなく、”現実の女”をここに描き出してしまう。当時はこういった神話的女性像をモデルに描く時は、理想化して聖母のように描かなければならないという堅固なまでの”掟”があった。クリムトはそれを次々に破っていくのである。これはアカデミックなものに対する挑戦でもあった。アカデミックな絵画は、自分の感情や思想を取り入れることが許されていなかったが、彼はそれを描きたいがために自ら「分離派」と呼ばれる一派を創立したのだった。

 さてこの『ユディト』である。男を誘う、恍惚とした目でその手に抱えるものは、切り落とした敵の男の首である。その男の顔は、暗く描かれていて表情は定かではない。彼女の片方の乳房ははだけ、もう片方は黒い薄物の下から透けて見える。その肌の生々しいまでの描写といい、あからさまなエロティシズムがそこには漂っていた。
 ところでこのユディトのモデルは、先ほどの『アデーレ』ではないかといわれている。その訳は、彼女の肖像画だけ2枚描かれていること、首に巻かれたチョーカーが、肖像画のそれとデザインが似通っていること、などである。そしてこの女性とクリムトとが、不倫の関係にあったのではないかともいわれている。といっても客観的な証拠はなく、想像の域を出ないのだが。

 二人の人魚を描いた『水蛇T』など、他にも何点か寓意画は掲げられていた。女たちに囲まれ、涼は自分が”裁かれている”ような気持ちになった。女に興味を示さない、愛し合っても何も生み出さない、その罪を・・・。おそらくは、清太も同じ気持ちでいることだろう。
 それよりも、涼は女たちの瞳の中に、清太と”同じもの”を感じずにはいられなかった。”男を誘う”その目の中に・・・。天使のような愛らしい顔と対をなす、彼のもう一つの顔――娼婦の顔を。ファム・ファタル同様当時出た言葉の、「ロリータ」の意味を思い出す・・・。「一見少女のようなあどけなさと、娼婦のような謎めいた部分を併せ持つ」――まるで清太に当てはまるではないか。愛する少年を前にしてこんな考え方はしたくないが、こうもファム・ファタルたちに囲まれていると、否が応にもこういった思考に陥ってしまう。『ユディトT』の首に見えるチョーカーは金色だが、それもまた再会した時の黒いチョーカーを思い出させ、清太の娼婦性と結びつけてしまう。

 彼は豊満な肉体と長い髪を持たない代わりに、鍛えられた固い体とボブカットの短い髪をし、男を誘う。意識しているとしていないとに拘わらず。あの最初の夜、ベッド上で見せた妖艶な姿も、今鮮明に脳裡に蘇ってくる。・・・それが、自分が彼に惹かれた理由の一つでもあった。
 当の少年はというと、横を見るとやはりまともには見られないようだ。裸の女が描かれた絵は特に・・・。自分は早く通り過ぎたいのに、連れの男がいつまでも絵の前に立っているのでいらいらしている、といった感じだ。たまりかねて、それを口にもした。
「ねえ・・・もういいでしょ? 次、行こうよ」
 足踏みをしそうな勢いで、涼を先の順路に促した。

『エミーリエ・フレーゲの肖像』
 ここへきて、クリムトが生涯愛したという一人の女性の肖像画が現れた。青を基調にした、クリムトがデザインした衣装を身にまとい、彼女は毅然と立っている。
 画家はいつも、アトリエに裸のモデルを2、3人はべらせ、ハーレムのような状態で作品を描いていたという。そのモデルたちと性的な関係を持ったり、幾人かの社交界の女性と恋をしたりといった逸話が残されている。だが、彼女――エミーリエだけはクリムトにとって特別な存在で、20年間連れ添ったにも関わらずあえて結婚はせず、体の関係も持たなかったという。エミーリエは”新しい女”で、妹たちと高級ブティックを経営し、ココ・シャネルよりも先に女性をコルセットから解放したそうだ。精神的にも経済的にも自立し、クリムトとは精神的な愛によって結ばれていた。

 それを示すものが――涼が清太に一番見せたかった1枚の絵、『接吻』だった。
 それはクリムト黄金様式の頂点ともいわれる作だった。金色の衣装に包まれた男女が寄り添い、画題通り口付けを交わす絵で、そこに溢れる情愛に、まず涼は打たれた。ずっと本物を見たいと願いながら叶わなかったその黄金色の輝きが、今自分の前にあることがにわかには信じられなかった。神々しいまでのその輝きは、見る者を圧倒させる。
 男は左手で女の頭部を抱き、右手でその頬を包む。女はただ男に身を委ね、陶然と目を閉じて男の接吻を待っている。今までファム・ファアルに見られたような、挑戦的な視線や性的なイメージは、ここでは鳴りを潜めている。女は”男を支配する”のではなく、”男に守られて”いる。待っているその呼吸、吐息さえも聞こえてきそうだ。彼女の右手は男の肩に回され、左手は自分の頬を包む男の右手に添えられている。男の衣装には四角いモチーフが用いられ、女のそれは円形だ。女のまとう金色の衣装からは、藻のようなこれも金色の飾りが下りている。それらの衣装の装飾が、性的なものを暗喩しているとしても、それにも勝(まさ)っているのはそこに息づく二人の男女の――生きた人間の”愛”だった。

 この抱き合う男女は、クリムトとその恋人エミーリエを描いたものだといわれる。一見、幸福に包まれているかのようなその二人――しかしよく見ると、女の足元は切り立った崖なのである。花々が咲き誇って、二人を祝福しているにも関わらず・・・。
 それが暗示するものは、幸福と隣り合わせの絶望――。クリムトが結婚という幸福を選ばなかったのは、いつ訪れるとも知れない絶望を恐れたからである。

 それを目にした時、清太には分かってしまった。この絵が、涼が自分に見せたかったものだということを。
 そこにあるものはただ”愛”だった。
 おそらくは正方形と思われるその画面の中に、愛し合う男女がいる。今まで見てきたクリムトの女たちは、肖像画は別にしても色々な形で自分を苦しめてきた。それが、この陶然とする女だけは、挑戦的なところが全くなく、ただ”いる”だけである。
 クリムトは”愛”そのものを絵にしてしまった――そんな印象が、清太を捕らえて離さなかった。何も包み隠さず、現実に生きている人間の・・・。彼は、愛を描く画家なのだと――この時分かってしまった。そう思ううち、熱いものが目に上ってきそうになった。だが、涼の前で絵を見て泣くことなどしたくない。まだ、完全に許したくはないのだ、彼のことを・・・。

 『接吻』はひと際明るい照明で照らされ、その前には人々が群がっていた。この展覧会一番の注目作だからであろうか。この絵は、クリムトを最も代表する作品でもある。一組の若いカップルが、できるだけ近くで絵を見ようとするせいか、清太と涼の間に割って入った。二人が連れには見えなかったせいなのか・・・。涼は焦って、カップルを避け清太のほうに近づいた。だが、その間にも人が入ってきてしまう。
「清太」
 思わず、彼は名前を口にした。少年は振り向いた。
 その表情を見て、涼ははっとした。紅潮して、何かに打ち震えているような、その顔・・・。しかし清太はそれを隠そうとしている。それで、涼は理解した。彼が、この絵の持つ意味を分かってくれたことを・・・。だが、清太はクリムトとエミーリエのことなど知らないはずだ。それでも、感動はしてくれたのだろうか・・・。今、これが目的の絵であることを彼に告げようか。しかし、それは野暮なことにも思われた。言葉にしなくても、きっと清太は分かってくれた、そう思いたい。
「清太」
 涼はもう一度、愛する少年の名を呼んだ。だが彼は、すぐには絵の前から動こうとはしない。もう少し、見ていたいのだろうか・・・。涼は彼の横にやっと立ち、黙って一緒にしばらく絵を眺めることにした。このままずっと、こうしていたい感情にも捕らわれた。
 清太がようやく絵の前から離れたので、涼も従った。結局、絵の前で言葉を交わすことはなかった。

 やがて、画家の晩年の絵が飾られた一画に入る。クリムトは黄金様式をやめ、その代わりに色彩を用いるようになった。写実と抽象との融合――それは完成され、さらなる発展を遂げようとしていた。肖像画のほかに、そこには風景画も飾られていた。
『アッター湖畔のカンマー城V』
 アッター湖畔とは、クリムトがエミーリエと毎夏に訪れた避暑地で、この絵も『接吻』も、彼と彼女とが一番良い関係にあった時期に描かれた。画家は湖にボートを漕ぎ出し、そこにイーゼルを立てて絵を描いたという。自然に囲まれ、愛する女性と共に過ごした夏――そこに幸福がないはずはない。
『ひまわり』『けしの野』『りんごの樹』――それらは同時代にいた印象派とはまた違った、色彩で画面を埋める描き方がされていた。そこには空が描かれることがあまりない。人物画と共に、彼の内面を探るもう一つの手がかり――それが風景画だ。

 そして『花嫁』――クリムトが死の直前まで描いていた、未完の作・・・。ピラミッドのように積み上げられた男や女、その真中に『接吻』の女と同様、うっとりと目を閉じて立つ、一人の花嫁・・・。黒と青の婚礼衣装をまとおうとしているが、未完なためドレスは仕上げられておらず、ただ絵の具が塗りつけてあるだけだ。周りの色彩を見ると、赤や黄色など、暖色系が多く使われている。
 晩年に至って、クリムトの絵には初期に見られたような”死”や”闇”はもはや影を落としていない。感じられるのは”生”、”生きる喜び”――そして”愛”である。
 未完のこの絵を見ながら涼は、画家がこれから辿り着こうとしていた世界に思いを馳せ、志半ばにして亡くなってしまったことが悔やまれて仕方がなかった。
 そして、画家クリムトの最期を看取ったのは――ほかでもない、あのエミーリエだった。自宅で脳卒中で倒れ、回らぬ舌で彼が言った言葉は――「エミーリエを呼んでくれ」だった。生涯一人だけ画家が愛し続けた、その女性の名前を・・・。そして、彼は彼女と弟子のエゴン・シーレの見守る中、息を引き取った。・・・


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