展示室を出ると、涼は言った。
「どうする? ミュージアム・ショップとか、常設展示とか覗く?」
少し後ろを歩いていた清太は、顔を上げた。
「ん・・・いい。次どこ行くの?」
涼は腕時計を見る。
「そろそろ12時だから、お昼にしようかと思ってるんだけど。とりあえず、出ようか」
そう言い、彼は先に立って歩く。そんな二人は、あえて『接吻』のことは口にしないように努めているようにも見えた。
ガラス越しに陽光が降り注ぐグランド・ギャラリーを通り、美術館から出た。噴水の水が、先ほどより高くなった太陽の光を受けて、輝いていた。日差しも強くなり、暑い。だが風は若干ある。
彼らと同じように美術館から出て、昼食にしようと話し合うカップルが周りに何組かいた。涼はそんな人々の群れから離れ、できるだけ清太と二人だけになれるようにした。
「どう・・・だったかな? 今日の展覧会・・・」
カタログを片手に抱えて心持ち緊張しながら、涼は聞いた。
「うん・・・」
しばらく、清太は言葉を選ぶように時間を置いた。
「・・・良かったよ。最初は戸惑ったけど・・・。涼が好きだっていうの、分かる気がする」
彼は素直に感想を述べた。だが最後のひと言に、涼は心の中で深く反応した。清太の心の、自分への距離を考えれば思わぬ言葉だった。どういう意味に取ればいいのだろうか。『接吻』のことを言っているのか・・・? しかし発したほうは、何気なく口にしただけかもしれない。その真意を探ろうと、涼は清太の顔を覗き見た。
「何?」
視線を感じ、少年は見返した。その顔は、――少し戸惑っているようだった。見つめられたことで今発したことを、まるで後悔しているようだった。その失言を、取り戻したがっているような・・・。
「あんたが、真面目だから・・・。だから、ああいうきれいな絵が好きなのかなって、思ったの」
彼は否定しようと、そう言ってみせた。だが、真意については、発した側も聞いた側も、分かってしまっている。――二人はしばし黙った。
「お昼、どこにしようか。あそこに上ってみる?」
美術館を出た人々が多く向かっているランドマークタワーを見上げて、話題を変えて涼は言った。
「・・・まだあんまりお腹空いてない。・・・船が見たいな」
「え? ああ、日本丸か。じゃ、少し歩こうか」
清太のほうから意志表示が出たので、涼は少し嬉しかった。
けやき通りを横切り、高層ホテルの横を通って、さくら通りへと出た。そこからは、大観覧車が左手の目前に迫る。これにも乗りたいが、まずは船を見に行かなくてはならない。
ランドマークタワーを右手にして、並木道越しの「帆船日本丸」を左手に見ながら、二人は歩いた。
「今日は帆が揚がってないんだ。・・・知ってる? 総帆展帆の日」
「知らない。どんなの?」
「帆が揚がるんだ、全部・・・」
帆船日本丸は、日本丸メモリアル・パークに係留されている、地球を45.5周した練習帆船で、総帆展帆の日には、真っ白な色をした全ての帆が揚げられる。その眺めは雄大で、かつて「太平洋の白鳥」と呼ばれた。その日は年に10回ほどあるらしいのだが、今日は当っていなかったらしい。清太と二人で見られなかったことを、涼は残念に思った。日にちを調べてから来れば良かった。といっても、今日はそれどころではなかったのだが。彼と逢う約束をするだけでも大変だったのだ。
巻き上げられた帆が括り付けられているマストの列を、二人はしばらく眺めた。帆が揚がっていなくても、その姿は優雅で美しい。マストの間にも二人の間にも、優しい風が吹き抜ける。
「中・・・入ってみる? 見学できるらしいけど」
ガイドブックで読んだことを、涼は言ってみた。
「ううん。ここでいい」
「あの・・・じゃあ・・・次あれ、上ってみない? 観覧車。せっかく、横浜に来たから・・・」
彼の機嫌が戻りつつあるのかもしれないことを感じ、今度は先ほどから願っていたことを誘いかけてみた。
「でも・・・、あれって1周するのに15分もかかるんでしょ? 飽きちゃう」
神奈川に住んでいながら横浜のことをあまり知らないな、と思っていたが、これだけは彼も知っていたようだ。
「でも、あの船だって上から見えるし、横浜が全貌できるよ」
涼はあきらめずにがんばった。
「今日はいい・・・」
俯いて、片脚を地面でこすり、清太は答えた。
「そう・・・」
涼は折れた。
やはり、恋人でもない自分と乗るのは嫌なのか・・・。しかし元気をなくした相手の顔を見て、清太がこう言ってきた。
「ごめん・・・」
涼は慌てた。
「いや、気にしなくていいよ。じゃ、もう車に戻る?」
優しく言う彼に、清太は頷いた。
駐車場に戻り、二人は再び青いスカイラインに乗り込んだ。
涼はエンジンを入れ、エアコンをつけた。車内は外の熱を吸収して、幾分か暑くなっている。
これからの道順を確認しようと、涼は道路地図を手にした。エアコンがそのうちに効いてきた。――と、清太が口を開いた。
「・・・あの絵・・・『接吻』でしょ?」
はっとして、涼は本から顔を上げ、横にいる彼を見た。続きを言わない彼に、自分から言うことにした。本のページを伏せた。
「・・・俺が、君に見せたかった絵・・・?」
少年は男のほうは見ずに、ゆっくりと頷く。
「俺の、気持ち・・・君は・・・」
この時は、何故か自分からも相手のことをまっすぐに見られず、少し目を逸らしてしまった。
涼は答えを待ったが、彼は深呼吸を一度しただけで、すぐには答えてくれない。だがいくらかかってもいいと思った。ただ、自分は待つだけだ。
清太には分かっていた。あの絵を見た瞬間、彼の気持ちが痛いほどに・・・。あの時自分の中に、ある言葉の灯がともされた。
『エイエンニ キミヲ アイス』
何故そんな言葉が浮かんだのか、分からない。その言葉は、画家クリムトのものなのか、涼のものなのかも分からなかった。だが、その瞬間に胸が熱くなり、涙が込み上げてきてしまった。
彼の真意を知り、あんな絵を見せながら、何故自分を裏切ったのかと思うと改めて悲しさが込み上げ、また苦しくなってきた。それでも、彼に涙を流すところなど、見られたくない。
「ふっ・・・」
声を上げ、彼は片手で口元を覆った。必死で食い止めようとした。何度も深呼吸をして、息を整える。
涼はその姿を見て、これ以上彼に言葉を要求するのは酷だと痛感した。眉は不自然に曲げられ、悲しげな表情を見せている。これが、彼の答えなのだ。だが無理をして、清太は声を出した。
「もう一度誓って・・・。もう、僕を裏切らないって・・・」
詰まる声で、それだけ言った。
泣かせたくないのに、また泣かせてしまうかもしれない。そのことに胸を締め付けられ、涼の手は自然に清太のそれに伸びていた。身を寄せ、口元にやっていない、膝に乗せられていた左手をそっと上から握った。
「誓うよ・・・」
目を閉じて言った。
その感触に固く目を閉じると、堪えていたものがとうとう一筋、頬を伝わってしまった。少年は右手も下ろし、涼の手の上に置いた。熱い掌に、拭った涙が残り、それを涼は自分の手の甲に感じた。
まだ彼を愛したわけではない。彼は恋人ではない。それでも涼には、自分に対しては誠実でいてほしいと清太はこの時願った。自分を愛しているというのなら、貫いてほしいと・・・。
車は桜木町を出て、大岡川の上にかかった弁天橋を渡り、関内地区へと入った。国道133号線の本町通りを行く。右手に神奈川県立歴史博物館、左手に横浜第二合同庁舎が見える。ある交差点には馬の彫像があった。それらを過ぎ、横浜開港記念会館、神奈川県庁本庁舎も過ぎて、港郵便局前の信号で赤になったので止まった。
「あの・・・先に山下公園へ行く? それとも、中華街でお昼にしようか」
この時には、愛する少年の涙も止まっていた。
「お昼がいい・・・」
「そう、じゃあ、車停めないと・・・」
信号が青になると涼はハンドルを繰り、空いている駐車場を探した。中華街の周りには、有料駐車場が幾つもあるはずだ。だがお昼時なので、見つけるのは難しいかもしれない。さすがに、街のすぐ外の駐車場はどこも満車だった。
「やっとあった」
街から少し離れた、山下公園の左端に近いところで「空車」の案内板を見つけた。そこへ入り、車を停める。
外は相変わらず暑いが、港の方角からの海風で汗はすぐにひく。
道を歩き、どこから中華街へ入ろうか迷ったが、やはり大きな門から入りたい。涼は清太を伴い、中華街で最も豪華な、その街のシンボル、善鄰門(ぜんりんもん)まで来た。赤、黄、青、金の極彩色、細かい彫りが特徴の巨大な門・・・。”中華街”の赤い文字が右から左に書かれた青地の看板が真中にあり、その下に力強い赤い柱が下りている。その門から海側にメインストリートが伸びている。
二人で大通りに入ると、途端に異世界が広がった。美味を求める大勢の人、肉まんやシュウマイを蒸す煙や香りが、一面に立ち込めている。その香りをかいだだけで、くらくらとしてきそうだ。
「迷っちゃうね。どこに入ろうか」
「涼、決めてこなかったの?」
「うん。だいたいは本で見てきたけど・・・。大きくなくても、美味い店とかあるだろうし、その場で決めてもいいかなと思って。何が食べたい?」
「なんでも・・・」
「じゃあ、適当に歩いて探そうか」
「うん・・・」
こんな会話をしながら清太は、本来ならば恋人と――光樹と来ていたはずの街に、今そうでない男と歩いていることに、違和感を覚えた。彼とここへ来ると、約束したのに・・・。成り行き上、仕方がないのだが。やはり、先ほどランドマークタワーで済ませたほうが良かっただろうか。
「どうしたの?」
考え事をしている清太に、涼が声をかけた。
「別に、なんでもない・・・」
こんな会話も、この間光樹としたかもしれない、と清太は思った。
Hot Spice
7
|