通りの両端には、”歓迎光臨 横浜中華街”と黒い文字が書かれた、縦長の黄色い看板がずっと続いている。店名が中国の書体で大きく書かれた各店の看板が、その間にまた続いている。看板には、”中国料理””広東””四川””上海””北京”とそれぞれメインに扱っている料理の名前も入っている。
歩いていると、清太が店頭で肉まんを売っている様子に時々見入っているのが、涼に分かった。せいろからは湯気が立ち上り、白く柔らかそうな肉まんが、店員によって取り出されている。
『肉まんが食べたいのかな』
そう思ったが、清太は店頭で立ち止まることはなく、ただ見ているだけだ。言い出すのが恥ずかしいのだろうか。
ふと、涼の目に留まるものがあった。”飲茶(やむちゃ)””香港飲茶”などの文字がそれだ。
『飲茶か・・・』
思いついて、涼は横の清太に声をかけた。
「ね、飲茶にする? いろいろ、ちょっとずつせいろとかに入ってるやつ。肉まんも食べられるよ」
少し微笑みながら言った。言われた時、清太は図星を突かれたのにびっくりしたのか、はっとしてみせた。照れを隠すように、目を逸らして彼は言った。
「うん・・・、それでいいよ」
飲茶は気軽に安い値段で中華が食べられるので若者中心に人気らしく、大きな飲茶専門店などはどこも行列ができていた。加えて今日は日曜日だ。ある店の外で最後列に並んでいる数人連れの若い男の一人に、涼がどのくらい待つのかと聞いてみたら、1時間待ちだと言う。うんざりして、そこはやめた。
いくつか覗いてみて、それほど並んではいない店を見つけ、そこに二人は入ることにした。飲茶専門店ではないらしいが、店頭には”飲茶”の文字がある。緑色の地に金色の文字をあしらった看板を見ると、料理は広東と四川が中心らしい。店の規模としては、中くらいだろうか。造りはあまり原色を使わず、シンプルなものだった。ウィンドウの中に、メニューのサンプルが並んでいる。”冷やし中華”も並んでいた。暑い日でもあるし、これでもいいのだが・・・。涼は清太に再び聞いた。
「冷やし中華もあるって。飲茶とどっちがいい?」
「でも冷やし中華って、どこでも食べられるじゃない? やっぱり飲茶がいいな・・・」
「そう。せっかく中華街に来たしね」
待ち時間は短く、5分か10分ほどで中に入れた。
中はクーラーが入っているらしく、外の暑さから解放されて、二人はほっとした。長い髪を後ろでまとめ、白いブラウスに黒の制服を着た女性店員がメニューを持って、彼らを案内しに来た。
「何名様ですか?」
「二人です」
涼は答えた。
「お煙草はお吸いになりますか?」
「いえ」
「ではご案内します、こちらへどうぞ」
店員は日本人らしい。女性に連れられながら店内を見ると、赤い回転台のついた大き目の丸いテーブルと、ついていない四角いテーブルがバランスよく並び、老若男女が料理に舌鼓を打っていた。楽しそうに、会話も弾んでいるようだ。
二人は薄緑のクロスがかけられた四角いテーブルへと案内された。メニューを二つ手渡される。
「では、お決まりになりましたらお近くの店員をお呼び下さい」
と言葉を残すと、女性店員はその場を離れた。
黒地のメニューを開くと、写真付きで料理が並んでいた。一品料理やご飯もの、麺類なども種類が多いが、飲茶で食する点心の数も豊富だった。
「うわー、中に入っても迷っちゃうね。どれにしようか?」
「・・・決められない・・・」
清太もメニューを見ながら困ったように眉をしかめ、迷っているようだ。
「あ、セットもあるって。デザート付き点心の。飲茶セットってやつ」
言われて、清太もそれを見つけた。
「ふうん。おいしそうだね。一人1セット頼むの?」
値段は、1セット2000円とあった。
「うん、ちょっと高いね・・・。あ、じゃあこれは・・・? 2名からの、一品料理と点心がセットになってるの。どれも3、4個ずつ入ってるし、二人で3000円なら安いんじゃないかな?」
「そうだね・・・。これにしようかな」
涼に言われるまま、視線を泳がせる清太。
「じゃ、決まりでいい?」
涼はメニュー越しに清太を見やった。
「うん」
二人がメニューを閉じたところに、コップに入った水が運ばれてきた。今度は別の女性店員だ。
「お決まりでしょうか?」
盆を脇に抱え、伝票とペンを取り出し、女性は言う。
「あ、お願いします」
飲茶セットCを、と涼が言うと、
「飲茶セットですと、お茶がポットサービスになっていますので、5種類のうちどれかお一つお選び下さい」
と店員がお茶の名前を言う。
「あ、ええと・・・。どれにする? いいよ、君が好きなので」
再びテーブルの上でメニューを開きながら、涼は清太に聞く。
プーアル茶、ウーロン茶、ジャスミン茶、緑茶などの写真が並んでいた。
清太は普段あまり飲まないものを、と考え、ジャスミン茶を、と店員に告げた。
メニューをもう一度繰り返して確認すると、店員は席を離れた。
「はあ、なんか慣れないと緊張しちゃうね」
涼は片腕をテーブルに載せたまま椅子の背に背をもたせかけ、一息ついた。
店内は青と白を基調にした、落ち着いた雰囲気の内装だった。それほど高級感は感じない。
「涼って、中華街来たことないの?」
「あるけど、飲茶は初めてかな。家族とか友達と、何回か来たことあるよ。今日は、結構久しぶりだけど。君は?」
「うん、僕もそんな感じ」
店に入ってから、清太は涼と自然な会話をしていることに気付いた。そして、今までは気に留めたことがなかったものにも・・・。それは、彼が優しい笑顔を見せる、ということだった。向かい合って、二人でメニューを決めている時も、目が合うとどきりとしてしまった。が、彼にはそれを知られたくない。
――彼を許した今、彼を嫌いになる理由がない。これからどう接したらいいのか、分からない。二度ほど肌を合わせた関係ではあるのだが・・・。彼は真意を見せた。今度は、自分が真意を見せる番なのか・・・?
沈んだ表情を見せる清太に、涼は心配になった。椅子の背から離れ、テーブルに体を近づけた。
「今日・・・楽しくない? やっぱり、俺とじゃ・・・」
清太はテーブルの下で手を組んだまま、顔を上げた。
「ううん、そんなことない・・・」
慌ててそう言ったが、彼に期待させてしまうだろうか、と言った後でまた躊躇した。
「じゃあ・・・一つ聞いていい?」
涼は周りを気にしながら、声のトーンを落として言った。
「何?」
清太は戸惑いがちに涼の目を見た。
「俺のこと・・・まだどこか嫌い?」
彼のまっすぐな眼差しをまともに受け、清太はまた目を逸らしてしまった。心に痛い、その目・・・。
少し間を置いて、清太は口を開いた。俯いたままで・・・。
「・・・き、らい、じゃ、ないよ・・・」
「じゃあ・・・」
涼はその先を求めた。
清太は、テーブルの下で拳を握り締めた。
「今はまだ、聞かないで・・・」
苦しそうな声が、涼の耳に届く。
「・・・ごめん」
悪いことをしたわけでもないのに、何故か謝ってしまった。
しかし、「嫌いじゃない」と愛する少年が言ってくれたことに、永年の胸のつかえが取れたような心地がした。「まだ」という言葉に、彼の心が動いてくれたのでは、と期待してしまう残酷な自分もどこかにいた。
清太は心を落ち着けようと、そばのコップを手に取り、一口飲んだ。
そしてまた、目の前の彼を見る。
テーブルの上で腕組みをした、シャツから伸びる涼の腕・・・。光樹よりは細いだろうか。自分と同じくらいか。スポーツはやっているのだろうか?
「涼って・・・何かスポーツやったことあるの?」
清太は話題を変えようと言ったのだが、涼のほうは急に変わりすぎたので、戸惑った。
「え、俺? いや、特には・・・。そんな得意じゃないし、学校の体育くらいだよ」
腕を組み直して、笑顔を戻してみせた。その笑顔に、またどきりとしてしまった清太だった。
目は大き目の切れ長で、眉は男らしい太さ、鼻が高く、髪はさらさらとしたストレートで、後ろだけパーマをかけてはねさせている。肌が細やかだということも、今までは考えたこともなかった。顔は、整ったほうに入るのではないか。
『でも・・・』
彼は恋人との違いを、見出そうとした。
『光樹のほうが、男らしくてかっこいい。光樹のほうが優しい。光樹のほうが明るい。光樹のほうが・・・』
「光樹のほうが・・・」
「え?」
清太は最後の言葉を声に出してしまったことに、焦った。
「光樹って・・・。そういえば、車の中でも言ってたよね。・・・君の彼?」
涼は声を落として、勇気を出して聞く。清太は仕方なく答えた。
「うん・・・」
「あの・・・さ。さっきの手帳なんだけど・・・もう一度見せてくれる?」
清太は不機嫌に顔を上げる。
「なんで?」
「あ、あの、君の彼の写真・・・挟んでるのかと思って」
それであの時眺めていたのか、と清太は呆れた。
「ないよ。今日は、持ってきてない。・・・別の手帳」
美術館で見せた手帳は学生手帳で、表に学生証が入る透明ケースが付いている。清太が光樹の写真を忍ばせているのは、スケジュール手帳のほうだった。
「見たいの?」
「うん、どんな人かなって思って・・・」
「見てどうするの?」
悪い雰囲気が戻りそうな気配に、涼は薮蛇だったと後悔した。
「いや、やっぱり気になって・・・。この話は後にしよう」
Hot Spice
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