第3ターム目に入った。1限目のコースの授業は英語の長文読解で春樹と一緒だったが、2限目は俺は日本史、春樹は世界史で分かれることになった。K大もH大も、文学部の試験科目は国語、英語の他に地歴・公民があり、自分が得意な科目を選択するようになっていた。学校で離れている分、できれば塾ではずっと春樹と一緒にいたいのだが、俺はどちらかといえば日本史のほうが得意なので、こればかりは仕方がなかった。学校でもそっちを選択している。

「日本史ってさー、漢字覚えるの大変じゃねえ?」
 夏休み前のある昼休み、夏期講習の受講科目を二人で決めている時、春樹は言った。彼が俺の教室まで来ていた。春樹は俺の前の席の椅子を、前向きにしたままでまたがり、俺と向き合っていた。その席の主の男子生徒は、昼休みはいつもではないがたまに校庭へサッカーをしに行ってくれるので、俺にはありがたかった。
 教室では、おしゃべりしている生徒もいるが、休み時間も惜しんで教科書や参考書とにらめっこしている生徒もいる。春樹は椅子の背に両腕を交差させて載せ、俺の机に置かれたパンフレットを見ていた。彼の開襟シャツから覗いた首に、一筋の汗が流れるのを俺は見た。風のある日だったので、エアコンはついていず窓が開けられていた。

「でも、世界史のほうが範囲広くて大変そうだけどな。そんなことない?」
「うーん、俺はカタカナのほうが覚えやすいけどな。確かに範囲は広いけど。好きなんだ、なんかこう、世界中の大きな流れみたいなの習うのが」
 春樹は椅子の背の上で腕を組み換え、はにかんだ。
「ふうん」
 俺はその時、自分の第一志望がばれないかとひやひやしていた。一つ一つ、自分が受けたい講座を選んでいる時、その度に彼に深く聞かれるのではないかと内心怖かった。俺はK大とH大の他にも滑り止めで受ける大学がいくつかあり、それらの入試科目の話もできるだけした。

『そんなに俺は、怖いんだろうか・・・』
 水曜日、日本史の授業中、俺は考えていた。
 白髪の若干混じる男性講師は、テキストを基(もと)に、入試でよく出る問題を説明していた。今は平安時代の荘園制度について、朗々とした声で講義している。
 俺が最初に偽りの第一志望を言った時の、春樹の顔を俺は忘れられない。
「そっか・・・」
 俺がH大だと言った後、彼は数秒置いてからそう短く言った。納得したふうではあったが、どこか寂しそうな感じにも見えた。1回目に志望校を書いて提出した日の、放課後の帰り道でのことだった。

 この間の彼の言葉も気になる。春樹も、ひょっとしたら俺と同じ気持ちなのではないか。そう俺は、ここのところ思い始めている。だがもう、彼は俺がH大に行くと思い込んでいる。今更どう言えばいいのか分からない。またそのタイミングも、俺は計りかねていた。

 今週は授業が午前中だけなので、塾が終わると春樹と二人で帰っていた。享は1限だけ受けて帰る毎日を送っていた。だから彼とは、帰りはあまり会わない。
「飯、食ってく?」
 駅へと向かっている途中、春樹が俺に聞いた。道に立ち並ぶ百日紅の枝は、ピンクや白の花でだいぶ太り、色付いてきている。
「ううん、今日はやめとくよ。昼飯代がかさむからって、午前中だけの日はできるだけそのまま帰ってくるよう言われてるんだ、母さんに」

「そう。・・・ところでさ香純、ちゃんと眠れてるか?」
「どうかな・・・。やっぱ夜もがんばっちゃって、遅くなっちゃってるな、寝るのが。寝不足気味かも」
「復習とか、お前もやってるんだ」
「うん、やっとかないと、次の日大変だから。俺、目とか腫れてる?」
 俺は右目の下に人差し指を当て、春樹に顔を向けた。
「いや、そんなことないけど。なんかちょっと、顔色悪いなと思って」
「そうかな? 自分じゃ気付かなかった。お前は? 眠れてる?」
「俺は疲れてきたら早めに切り上げちゃって、早く寝るようにはしてるよ」
「お前って、やっぱ要領いいよな。羨ましい」
 言った後で、なんだか普通の高校生の友達同士らしい会話をしているな、と俺は思った。彼は紛れもなく自分の恋人だと、今ははっきりといえる存在なのに。その言葉を自分の中でつぶやく時、俺はもう怖くはなかった。

――そういえば、夏期講習が始まってから俺と春樹は、キス一つしていなかった。
 勉強の毎日で、そんなことすら忘れそうになっていた。
 塾を終えて家に帰っても、休みの日でも、テレビもあまり観ずに夏期講習での勉強を復習するだけの毎日だった。お互いに、電話で話したりメールをしたり、そのくらいのことはしていたけれど・・・。その会話の内容も、勉強のことが中心になっていた。
 ”受験生”を意識する前は、あんなにも彼と逢うことを望み、愛し合うことを望み、学校でのほんの僅かな時間でも逢える喜びを感じて、その瞬間瞬間を大切にしていたのに。今は俺も春樹も、”ただの”受験生以外の何者でもなかった。なんとしても大学に入らなければならないという、その現実に追われていた。また、毎日逢って同じ教室にいることに安心を覚えてもいた。だから互いを求めることを、忘れてしまっていたのだろうか。

「香純、喉渇かねえ?」
 清涼飲料水の自販機の前で、春樹は立ち止まった。
「あ、うん。俺も飲む」
 そうして、春樹はサイダーを、俺はコーラを買った。
 歩いて汗ばんできていたので、俺たちはそのまま立って缶を傾けた。コーラの冷たい喉越しに、生き返る心地だった。
「ぷはー」
 一口飲むと、二人とも時間差で息を吐いたのでおかしくなって笑った。喉の渇きから、一気に飲んだからだ。

「なあ、香純」
 缶を持ったまま、春樹は真顔になって呼びかけた。
「うん?」
 俺は缶を口に当てた状態で、目線だけ彼に向けて応えた。
「海、行かねえか」
「はっ? 海?」
 予想していなかった言葉に、俺は聞き返した。
「何言ってんの? 今俺たちそれどころじゃ・・・」
 意味が分からない、という笑い顔を彼にしてみせた。
「だってさ」
 春樹は缶を持ちながら曲げていた腕を、下に下ろした。
「こう毎日勉強ばっかじゃ、やっぱ辛いじゃん? たまには息抜きしたいなって、思ってさ」
「けど・・・」
 戸惑いを隠さない声で、俺は口篭もる。

「・・・俺たちさ・・・、なんか全然二人だけになってないよな、最近」
 彼のその言葉に、俺はその瞳を覗き込もうとした。だが彼は下を向き、伏し目がちになっているのではっきりとは伺えない。
「そりゃ・・・、俺だってそれは感じてたさ。けどさ、やっぱり今は勉強のほうが大事だから・・・。海なんて・・・無理だよ。それに、男二人でなんて、余計に・・・」
「香純」
 春樹は俺の缶を持っていないほうの腕を引っ張って、自販機の横に連れていった。
「お前、恥ずかしいか?」
 今度は彼が俺の瞳を覗き込んだ。
「な、何が・・・」
 俺は思わず目を逸らしてしまった。
「俺と二人で海、行くのが・・・」

「だって。海なんて、海岸なんて、カップルばかりじゃないか。そんなところに男二人で行ったら、目立つよ。それに、ナンパ目当てだと思われるのも俺、嫌だ・・・」
 テレビドラマなんかで、よくそういう光景を見かけたことがある。茶髪の男たちが、茶髪の女の子たちに声をかけて回る。そんな連中と一緒に見られるなんて、耐えられそうになかった。今の俺には女なんて見えない。それより俺は、春樹までそんな目で周りに見られるのも想像したくない。彼は俺の、大切な・・・。
「そんなの、勝手に思わせとけばいい。そうじゃないのは俺たちが知ってるんだから。俺、お前と見てみたいんだ、海。こんな時だからこそ・・・」
「春樹・・・」
 強気な彼に、俺はどう答えたらよいのか分からなくなった。何故海でなければならないのか。どうせ二人で逢うのなら、映画館など目立たない場所で俺は逢いたい。

「待って・・・。これ、飲ませて・・・」
 俺は飲みかけのコーラの缶を持ち上げ、残りを飲んだ。春樹も俺に続き、黙ってサイダーを飲み干す。空き缶を俺の手から取って、彼はそばの空き缶入れへと二つを捨てた。
「・・・どうしていきなり、そんなこと言い出すの? 俺、もっと静かなところでお前と逢いたい」
 周りに聞こえないよう小さな声で、俺は言った。
 また彼との間に溝ができるのでは、との不安が、俺の中に芽生え始めた。もうそんな溝は、作りたくはないのに。
「そうじゃないんだ。俺、このまま勉強ばかりで受験に向かって、お前と何も楽しいことも感じられずに入試を迎えてしまうのが、嫌なんだ。怖いんだ。そのまま大学生になるのは・・・」

 ここで彼は息を詰まらせた。次に深呼吸をした。そばの建物と自販機との陰で、日差しは遮られてはいるが、彼も暑さは感じているはずだ。二人のそばを、他人に無関心な通行人が通り過ぎてゆく。だがこれが海岸になると、俺たちを見る目は好奇に変わるのだ。
 そのまま大学生になる――そのまま離れ離れになる。それが今彼の未来予想の中では、現実になろうとしている。たとえ二人が付き合い続けても、同じキャンパスを歩くことはできないのだと・・・。
「春樹・・・」
 本当のことを言おうと、俺の唇は開きかけた。が、何かがそれを押し留めた。一度唇を噛み締め、再び口を開いた。
「・・・分かった。なら、1日だけなら・・・行くよ」 


雲の峰