ゆっくりと回りながらその存在を誇示している観覧車の下に、僕たちは辿り着いた。順番を待つ間、楽しそうに会話を楽しんでいる周りのカップルや家族連れたちに混じって、僕は少し居心地の悪さを感じていた。男二人で観覧車にというのは、やはり不自然だろうか・・・。遊園地の中でも、ここは”愛情で繋がった者同士”が限られた空間に収められてゆく、特別な場所だから・・・。まるで『ここにいてはいけない』と無言のうちに言われているような気分だった。解放的だった気分は少し頭を潜めた。
 遊園地の青いスタッフジャンパーを着た若い女性従業員に扉を閉められ、鍵をかけられた。早く上(のぼ)ってほしいという僕の気持ちとは裏腹に、ゴンドラはじりじりと動く。やがて彼女の頭頂が見えるくらいの位置に来た時、僕は光樹と向かい合った席にいながらそわそわとした。

「ね、そっちに行ってもいい?」
「うん、おいで」
 彼が答え終わる前に、僕は立ち上がっていた。重さが片方に移動する時、ゴンドラが微かに揺れた。光樹に手を取られ、僕は彼の右横に座った。すぐに彼に寄り添う。光樹は僕の背中に腕を回し、肩を抱いてくれた。
「僕ね・・・僕、光樹にずっと逢いたかったんだ・・・」
 僕は彼の胴に両腕を回し、彼の胸に顔を伏せた。座ったまま、斜めに抱きついている形になる。
 今日最初に待ち合わせの駅頭で彼を見つけた時、僕はその場でこうして飛び込みたかった。でも、人前でそうするわけにはいかなかった。彼といろんな乗り物に乗って遊びながらも、僕はずっと我慢してた。
「俺も・・・逢いたかった」
 彼は髪をそっと撫でてくれた。彼が僕の顔を見た時、互いに何を求めているかが分かった。僕は目を閉じた。――それは軽く触れ合うだけの短いものだった。唇が離れた後も、僕は彼にきつく抱きついていた。彼も頭を傾け、髪に頬を埋めてくれる。
 その時僕は、『愛されている』と感じた。

 思えば、こんなふうに人に甘えたことって、ずっとなかった。もう両親に甘えられる年ではないし、僕には兄弟もいなかった。こんな種類の”愛されること”というのは初めてだった。優しくされるのも・・・。でも僕は、彼にどのくらい甘えていいのか分からない。彼にどのくらい愛されているのかまだ自信が持てないのと同時に、自分が彼をどのくらい愛しているのかもまだ分からなかった。
 でも僕には、彼が必要な存在になり始めている。彼がいなければ、僕は笑うことさえ忘れるところだった。
 甘えられる相手がいるのなら、甘えたかった。互いに他に好きな人がいるから、許されないことだとしても・・・。幸せな瞬間が得られるのなら、それを感じ続けたい。

 彼の優しさから、僕を体だけの関係とは思っていないと分かった。大切にしてくれているのだと・・・。僕は彼といるだけで楽しい。いつか僕は、こんな時をあの人――愛原さんと過ごせればいいと願ったりした。でも今は違う優しい人が、すぐそばにいる。僕はずるいのだろうか。彼を、愛原さんの代わりにしているのだろうか。でも今の僕には、彼が必要なんだ。――少なくとも、僕も彼が好きだった。僕は彼にとって唯一の存在じゃないかもしれない。例えそうだとしても・・・。誰かに愛されていなければ、そう感じていなければ、生きられない。

 彼に少しでも愛されているのなら、いつまでも嘘をつき続けていていいのだろうかという疑問がこの時自然に生まれた。僕は彼の胸の中で、静かに口を開いた。
「光樹・・・あのね・・・」
「何?」
 ゆっくりと彼の胸から離れ、身を起こした。
「僕・・・光樹に言わなきゃいけないことがあるんだ・・・」
「え・・・?」
 優しさを残しながらも、彼の顔に疑問符が浮かぶ。
「嘘、ついてたんだ・・・。フリーターって言ってたの・・・。18歳でもないんだ。ほんとはね・・・ほんとは、まだ高校1年なんだ・・・」
 勇気を出し、彼の目から視線を逸らさないようにして言葉を紡いだ。ずっとついていた、小さな嘘・・・。

 ゴンドラは頂上を目指して上昇を続ける。他の乗り物や建物、遠くには青く霞む山並も見えた。ここは都会の外れにある。空には、青空の中に刷毛で刷いたような雲がたなびいている。1羽の、名前の知らないカラスくらいの大きさの鳥が、窓を横切った。
「そう、なんだ・・・。でも、別に気にしなくていいよ」
 彼は微笑む。それは許す微笑みだった。
「初めて逢った時ね・・・学校サボっちゃってたんだ。だから、不良みたいだと思われるのが怖くて、今までどうしても言えなかったんだ・・・」
 僕はそこで口をつぐむ。どうしてサボっていたのかまでは、言えない。彼に”あのこと”を話そうという気持ちを、忘れたわけじゃない。ずっと、頭の片隅にはあった。悩みを共有するか、それとも彼の”何も知らない”笑顔を守るか、僕は思い惑っていた。――そして出した答え。僕はまだ、彼の笑顔に包まれていたい。それにこそ、僕は癒されているのだから・・・。

 黙ってしまった僕に、光樹が声をかけた。
「そんな、沈んだ顔しないで。ほんと俺、気にしてないから」
 僕の肩を抱き寄せた。僕は頷く。
「光樹、優しいね・・・」
 どうしてそんなに優しいの? そう思いながら、僕は目を閉じて彼の胸に手を当てた。
「清太・・・」
 名前を呼ばれ、僕は顔を上げた。彼は僕の前髪を掻き揚げた。唇を寄せ、おでこに温かい感触を残した。
「君のこと、好きだから・・・」

 僕を抱き寄せたまま、光樹は窓の外を見た。
「いい眺めだね。窓が開いたら、風が気持ちいいだろうな」
「でも開いたら、大変だよ」
 僕はやっと再び笑った。
「はは、そうだね」
 しばらく、二人外の景色を眺めた。ずっとこのままでいたいと思うのに、ゴンドラは頂上を過ぎて今度は下降してゆく。
「ね、夜はどうする? どっかで食事していく?」
「え・・・。でも、僕今日母さんに図書館に行くって言ってきちゃったんだ。図書館って、土日は夕方までなんだ。だから、あんまり遅くは・・・」
 夜までいたいと僕から言ったのだが、年を明かしたのでこうして本当のことも言う気になった。
「食事は、無理・・・?」
 彼は残念そうに聞いた。その雰囲気に、僕の気持ちは揺らぐ。
「ほんとは、僕も夜までいたい。どうしようかな・・・」

「あ、じゃあさ、よかったら俺んち来ない? 軽くお茶だけでもして・・・。どうかな?」
「え、光樹の・・・? 行って、いいの?」
 彼からの初めての誘い。嬉しさと戸惑いを覚えながら、彼の顔を見上げる。
「ああ。今日は、二人きりになれるし・・・」
 二人きり――つまり彼のもう一人の恋人、真人さんがいないってことだ。
「行き、たいな・・・。じゃあ、呼ばれちゃおうかな・・・」
 僕は小さな声で言った。

 ゴンドラはやがて地上に着いた。係員の姿が見えてくると、二人とも身を離した。僕は元いた向かい側の席に戻る。そして鍵は解かれ、外界へのドアが再び開けられた。僕たちは二人だけの甘い空間から、名残惜しげに降りた。
 観覧車の乗降場から少し歩く。
「まだ、何か乗る?」
「うん、あと一つか二つだけ・・・。あと、ゲームもやりたいな」
 そうして、乗り物を二つ楽しんだ後に僕たちはゲームコーナーへと行った。二人で遊べるホッケーや、街のゲームセンターにあるような対戦型のアクションゲーム、レースゲームを選んでやった。カップルに混じって、クレーンゲームさえもやった。数百円かけて二人交互に挑戦し、クマのぬいぐるみが取れた時は、彼は子供みたいに喜んでいた。
 僕たちはお互いに、他に思いを寄せる相手がいて、純粋な”普通の”恋人同士ではなかった。でもこの時だけは、彼は僕にとってただ一人の存在なのだと錯覚した。
 こんなことをしていても、現実逃避しているだけなのだということは分かっている。この幸せは刹那的なものなのだと、今日が終われば、またあの悪魔のいる現実へと帰らなければならないのだと・・・。それでも僕は、今だけは許されたかった。


眠れる太陽、静かの海
10-2