「ほんとに、なんにもないだろ? だから、S駅にはよく出ていくんだ。ゲーセンとか服屋とか、色々あるし」
駅を降り、彼の住むアパートへ向かいながら光樹は言った。駅前にはコンビニや個人商店がぽつぽつと見える。明りが点くのを待つ素朴な街灯が等間隔で現れる。閑静な住宅街といった感じだ。遊園地を夕方早めに出て、1時間ほどで僕たちはここへ着いた。傾きかけた太陽を背に、道を知らない僕は鼓動を早めながら、彼について歩いてゆく。部屋に呼ばれたことでより彼に近づけるという嬉しさ、観覧車よりも落ち着いた場所で、二人きりになれることへの期待で・・・。
微かに、潮の香りがする。彼の部屋に入った時、僕は最初にそう感じた。
「上がって。そこに座ってて」
光樹は薄い水色のカーペットの上に置かれたクッションを片手で指し示した。その前には木製の低いテーブルがある。
「うん。おじゃまします」
言われるまま靴を脱ぎ、土間から上がった。
「楽にしていいよ。コーヒーでいい?」
「うん」
「ごめんね。うちコーヒーミルとかないからインスタントだけど」
彼はキッチンで照れ笑いしながら言った。
「ううん、大丈夫」
彼がお湯を沸かしている間、僕は部屋を見渡した。壁には、大きく巻いた緑がかった青色の、きれいな波だけを写したものと、プロのサーファーらしい人が大波の上を滑っている姿を写したポスターが1枚ずつ貼ってある。
「ね、この間言ってたチューブライディングのチューブって、こんなの?」
「うん、そう」
光樹はやかんを沸かしているガスレンジの前で、振り返って言った。
「こんな中滑るなんて、すごいね」
部屋には、グレーのケースに入ったサーフボードが壁に立てかけてある。これが、彼がいつも使っているボード・・・。そう思うと、わくわくする。今は中身は見えないけれど。
左側の壁には金属製の棚があり、CDやカセットテープ、オーディオコンポ、雑誌や本が並んでいる。棚の隣にはシルバーボディーのテレビ。窓際には木製の勉強机、ベッドサイドテーブル、ベッドと右に向かって置いてある。カーテンもベッドカバーも青い。全体的に、青と白を基調にしている感じだった。
ふと、棚の目線とちょうど同じ高さの段に、フォトスタンドがあるのが目に入った。それもサーフィン関係らしいと思って、僕はよく目を凝らした。そこには砂浜に仲間と写っている光樹がいる。みんな半袖のウェットスーツ姿だ。中に、彼よりちょっと年上らしい男の人が写っていた。僕は何故かその人が気になった。
「光樹これ、いつ撮ったの?」
「ああ、それも去年の。夏休みに宮崎行った時のだよ。――そこに、俺の最初の相手が写ってるんだ」
彼はまだ沸かないやかんから離れて、こっちへ来てフォトスタンドを手に取った。僕の横に座る。
「この人・・・」
僕が気になった人を彼は指差す。
「そうなんだ・・・。かっこいい人だね。いくつ離れてるの?」
彼は光樹以上に日焼けしていて黒の短髪で、目は細いけれど彫りが深い。この人が光樹を、今僕たちがいるような関係に目覚めさせた・・・。そう思うと、胸の奥がきゅんとした。彼――光樹も、男らしくて逞しい人が好きなのだろうか。
「3つ。今は大学出て就職して、土日だけ海行ってるんだって。前にも言ったけど、今でも時々会うよ。ほんとはフリーターのほうがサーフィンしやすいんだけどって、いつももどかしそうに言ってる。平日を休みにしたりできるからね。・・・あ、ごめん・・・」
彼は僕がついていた嘘のことを思い出したのか、笑顔を消して謝った。
「ううん、そんな・・・」
僕は首を横に振る。
彼は再び立ち上がり、お湯が沸いたやかんのほうへと戻った。お湯が二つのマグカップに注がれる、こぽこぽという音がする。
彼が用意してくれたスティック状のお菓子に手を伸ばしながら、二人向かい合ってコーヒーを飲んだ。
映画が好きなのか、壁には波のポスターの他に、映画のワンシーンを切り取った絵葉書も何枚か貼ってある。カラーよりはモノクロのものが多かった。こうやって、僕は映画や音楽、ファッションなど、部屋に彼の趣味が分かるものを見つける度にその話題を彼に投げかけた。彼は快く語ってくれた。僕も語る。同じものが好きだと分かった瞬間があると、とても嬉しくなった。
会話の間、彼は終始笑顔だった。声を出して笑う時もある。遊園地にいる時から、僕はずっと幸せを感じ続けている。こんなふうに優しくされたら、もっと好きになってしまう。信じてしまう。僕だけ想ってくれてるんじゃないかって・・・。
楽しい会話が続いていたが、ふと途切れた。
「今日さ・・・何時まで平気?」
彼はテーブルの上に片手を置いて、さりげなく尋ねてきた。いつのまにかレースカーテンの外は薄暗くなり始めている。彼は立ち、窓の両脇にあった青いカーテンを閉めた。そしてまた座る。
「えっと・・・。僕もほんとは、来週から試験なんだ。期末テスト。だから、夕食までには帰って勉強しないと・・・」
「そう。じゃあ、7時くらい? 今6時だけど・・・」
「うん・・・」
僕は力なく頷く。本当はもっと長く一緒にいたい。なんでまだお互いに学生なんだろう。
「あの、ちょっとトイレ借りていい?」
次の話題を考えているところへ、生理現象を感じて恥ずかしげに僕は聞き、彼に教えてもらって洗面所へ向かった。そこにトイレへのドアとバスルームへのドアが並んでいる。トイレから出て手を洗う時、僕は無意識に前の造り付けの棚に置かれた白いコップを見た。そこには、歯ブラシは予想に反して1本しか入っていなかった。青い半透明なものが1本。――”あの人”の歯ブラシはなかった。
僕は部屋へ戻り、俯いたまま、さっきまでいたテーブルを挟んだ彼の前ではなく隣へ座った。彼に寄り添い、接している右腕とは逆の左手で、Tシャツの袖を掴んだ。
「・・・どうしたの?」
光樹は首だけ僕のほうへ向けた。
「ないんだね、歯ブラシ・・・」
「え?」
「真人、さんの・・・」
僕は袖を握った手に力を込める。
「ああ・・・」
彼は顔を正面に戻して僕に横顔を見せ、間を置く。
「できるだけ呼ばないようにはしてるけど、それでも時々学校の友達が遊びに来たりもするから、普段は・・・出してないんだ。しまってある。友達にも、急には来ないよう言ってあるんだけど・・・。学校帰りに俺と一緒に来たりさ」
「写真も・・・? しまってあるの?」
さっき部屋を見渡した時には、なかった。まだ僕は彼の姿を見たことも、声を聞いたこともない。光樹の口から上る話から、想像しているだけにすぎない。真人さんのことを知らないのは、正体の分からない幽霊を相手にしているみたいですっきりしない気持ちだった。
「ああ。・・・ごめん、やっぱり気になるんだね・・・」
彼は立ち上がり、勉強机の引出しから中を探り、写真らしき1枚の紙片を持って戻ってきた。
「こいつなんだ・・・」
差し出された四角い枠の中には、彼と同じ年くらいの若い男が写っていた。前髪を下ろし、もみあげを長く残した黒い短髪。目鼻立ちは整ってはいるけれど、奥二重で彫りは深くはない。全体的に細い印象だった。その彼が、紺色のシャツを着て笑って――同じように笑った光樹と一緒に写っている。背景はこの部屋のようだ。僕は胸が締め付けられた。幽霊は現実になった。初めて見せられる彼のもう一人の――いや、本命の恋人の写真が、こんな残酷なものだなんて。
僕は何をやってるんだろう。どうしてここにいるんだろう。何しに来たんだろう。光樹はちゃんと、好きな人とこの部屋で過ごしている。二人で、そこにあるベッドを温め合っている。彼の恋人がいた”跡”が、この部屋にはあるのだ。目には見えなくても・・・。それが、僕と彼との隔たり。違う世界に住む者同士なんだ。やっぱり僕は彼にとって1番じゃない。――感じるのは疎外感。
最初から分かってたことだった。彼に恋人がいるのが分かってて、僕は光樹と付き合い始めた。
「清太・・・」
彼に声をかけられ、初めて僕は自分が顔を醜く歪めていることに気付いた。
「ごめん、こんな写真・・・」
彼はテーブルの上に伏せた。しばらく沈黙が続く。
「真人さんとは・・・いつから付き合ってるの?」
震えながら、僕は声を絞り出した。
「・・・」
彼は僕から離れた。顔は僕のほうを見ない。立てた左脚の膝を右手で抱え、彼も沈痛になった横顔を見せている。
「いつから?」
「・・・高校2年から・・・」
3年も・・・。それを知り、彼との距離がさらに遠くなった気がした。僕には、僕と光樹との間にはそんな年月はまだ存在しない。
「卒業してから、俺は大学へ、奴は専門学校へ行くことになった。でも奴は、真人は、俺の後を追ってこの部屋へ来た。それを俺は・・・受け入れた」
ゆっくりと、一つ一つ言葉を選ぶように彼は言葉を吐いた。
「やっぱり、僕とは・・・」
「清太」
続きを、彼は制した。体と顔を僕のほうに向ける。
「君が好きなのは本当なんだ。遊びなんかじゃない。ほんとに、好きなんだ・・・」
「だって・・・じゃあ、真人さんは?」
「奴は・・・」
「彼のこと、ちゃんと好きでいてあげてるの?」
何故か僕は、こんな聞き方をしてしまった。彼の本当の気持ちが知りたくなったからだろうか。いい加減な気持ちで僕と付き合って、本命の恋人を悲しませているんじゃないだろうか。そんな人だとは思いたくない。でも・・・。
「好き・・・だよ・・・。でも君も好きになってしまった。それだけだ。どうしようもないんだ」
「光樹・・・」
どっちが好きなのかと、聞いてしまえば楽なのだろう。でも今の僕には、まだそれができない。自信がないんだ。
「僕以外にも、誰かと逢ってるの・・・?」
前に、いろんな男の子と浮気してるようなことを聞いたことがある。僕もその一人なんじゃないかって、さらなる不安が募ってくる。
「違う、君だけだ。あいつの他は、今は君だけ・・・」
「ほんと・・・?」
「ああ」
僕は彼の瞳を覗きこんだ。その輝きに、嘘はないと分かった。僕は彼に近付く。そして、両腕を広げてそっと抱きついた。
「好き・・・。光樹が好き・・・。真人さんと付き合っててもいい。ただ僕を・・・僕を、捨てないで・・・」
迷っていた彼の両手が、僕の背中に触れた。彼の胸に接している頬に加えて、彼の温もりを感じる。
「そんなことしないよ」
彼は僕を抱き返し、優しさの中に力強さが伝わる声で言った。
眠れる太陽、静かの海
10-3
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