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「俺、みんなに迷惑なことしてるのかな」
 朝練後のロッカールームで、愛原さんは力なげに上田さんに言った。
「そんなことないって。やりたい奴がやったんだから。な、みんな」
 夏服の制服に着替えながら、上田さんは周りに問うた。
「そうだよ、気にすんなよ」
 3年生の高橋という部員が言った。彼も参加した一人らしく、愛原さんとは同じクラスだ。他の部員も頷く。
「今日のこともだけど、片付けのことも。2、3年でやりたくない奴だって、いるよな。俺、考えてなかったんだ、そこまで・・・」
 愛原さんの表情は沈んでいた。僕は秋川と顔を見合わせた。僕たちも着替えている途中だった。
「愛原・・・。じゃあ、聞いてみよう。片付け、やりたくない奴、いるか?」
 上田さんはロッカールーム内を見渡した。

 しばらくみんな黙っていたが、やがて島村という3年生が口を開いた。
「やりたくないっていうより・・・、俺、部活終わった後塾に行ってるんだ。3年は受験だから、他にも同じような奴、いると思う。俺はだから、もしやることになっても参加はできないんだ」
「そうか・・・」
 上田先輩は言う。
「キャプテン、俺はやってもいいと思います」
 すると佐藤という2年生が賛成意見を述べた。
「俺も、賛成です」
 今日空気入れを手伝った人、普段から特に愛原さんを慕っている人はみんな賛成した。
「俺は・・・正直言って嫌だな」
 だがこんな反対意見を出す人もいた。彼は3年で、江口といった。その彼が続ける。
「1年の時だけっていうのはみんな経験してきたことだし、途中で変えるのはどうかと思う。やっぱ、やりたいことがある奴だっているだろうし・・・。何より3年は忙しいしさ、全員は無理だと思うんだ」

「反対意見の奴は・・・っていうのはやめようか。塾に行ってて、無理な奴は手を挙げてくれるか」
 上田さんは、愛原さんに代わってみんなに聞いた。愛原さんは黙って様子を見ている。すると、2、3年生の中からはぱらぱらと手が挙がった。
「やっぱ、そうだよな・・・。ごめん、みんな・・・。俺、自分のことばっかり考えてた。俺、塾には行ってなかったから」
「俺は・・・愛原の意見はありがたいと思うよ。みんな手伝ってくれれば、今朝みたいに助かる。そうだ、1年はどうかな?」
 上田さんはおもむろに僕たちのほうを見た。
「え、俺たちですか・・・? でも、意見する資格なんて俺らにはないですし・・・。そりゃ本音では、手伝って下されば助かりますけど・・・」
 秋川は答える。1年は片付けが元から義務だから、との意味だろう。それを聞き、上田さんは頷きつつ、考え込む様子を見せた。

「じゃあ、こうすれば? その時その時、時間があってできる奴だけ参加すれば・・・。監督にさえ許可もらえれば、いいんだろ?」
 高橋さんが言った。
「そう、フレキシブルにそうしてもいいかもしれないですね。はかどるし、俺実はいつも後ろめたい気持ちで帰ってたんです。1年だけでいいのかなって」
 と、2年生の佐藤さんも同意する。
「・・・そうか。みんなありがとう。今度、監督にそう言ってもいいかな?」
 少し元気を取り戻した愛原さんは顔を上げ、言った。部員はみんな頷く。先ほど塾があって参加できない、と言っていた島村先輩や、江口先輩など反対派の人たちも頷いて「いいんじゃない?」といった表情をしてみせている。
 誰も愛原さんを嫌う者はいない。やはり彼は、部員みんなに慕われているのだ。そして尊敬されている。僕はこの時改めてそのことを強く感じた。


 その日の授業を終えると僕は下駄箱へと向かった。ここでいったん通学用の靴に履き替え、サッカー部のロッカールームでスパイクに履き替えるのだ。自分の箱の扉を開ける。
 そこにはいつか見たのと同じ光景が、狭く暗い空間に広がっていた。――白く小さい紙が、靴の上に乗っていたのだ。朝見た時は何もなかったのに・・・。
 そこにはこうあった。見覚えのある乱れた字で、黒ペンで書かれていた。
『今日午後の練習が終わったら、体育教官室まで来い S』
 見るとすぐに制服のズボンのポケットへと隠した。周りの生徒に見られないよう、注意しながら・・・。僕は自分の中に立ち込めていく暗雲を、どうすることもできなかった。そのまま校舎を出、クラブハウスへに向かって歩く。

 午後練の時間になった。ミーティングの後、愛原さんはまた監督に提案した。みんなで決めた通りのことを進言したのだ。だが沢本は相手にしないといった態度を取った。
「聞いてなかったのか愛原。今日はだめだと言ったろう」
 変わらない監督の態度に、その場には緊張したムードが漂う。
「でも、みんなはやってもいいって言ってくれたんです。じゃあ、明日からならいいですか?」
「愛原、練習は各自ノルマを課すこともある。達成できるまでの時間はそれぞれ違う。長くかかってしまう奴もいる。それなのにお前は、2、3年に全員ノルマが達成できるまで待っていろというのか? お前はいつでもノルマが早くできるから、待つ人間の気持ちも長くかかっちまう奴の気持ちも、分からないんだな」
「そんな・・・」
 予想外のことを言われたらしいショックで、愛原さんは言葉を失ってしまい、蒼ざめた。僕も沢本がこんなことを言うとは思わなかった。
「お前はもっと、周りが見えるようにならんといかんな。目配りが試合中だけではいかんぞ。・・・分かったかみんな。今日終わった後も、いつも通りだ。さあ、散らばれ」

 言われ、部員たちは仕方なく暗い気持ちのままグラウンドに散らばって、ストレッチの準備をした。とても反対意見を言える雰囲気ではなかった。ショックが大きいのか、愛原さんはしばらくその場に立ち尽くしていた。それを、高橋さんが肩を抱いて元気付けている。上田さんもグラウンドの隅で、同情した面持ちを見せていた。「あんな言い方しなくってもいいのに」と陰口を叩く部員もいた。僕はますます沢本が嫌いになった。

 その日は、各自ノルマが課せられた。なまった体をほぐすためだといって、筋トレ、走り込みなどをやらされた。目標の回数や時間が達成できるまで、各自がんばった。
 走り込みは、ボールを使わずにダッシュの往復を何度もやって、戻り時間が定められた時間より長くかかってしまった者は、その分往復の回数を増やされた。例えば20秒のところを23秒かかれば、そのペナルティーとして1往復分増える。時間は監督の沢本とマネージャーの上田先輩とが、スピードウォッチを持って計った。これは僕にはきつい練習だった。最初のうちはなんとか時間が守れていたが、段々疲れてきて回数はどんどん増えていく。辛い思いをしながら、テスト明けにこんな練習プログラムを組み込んできた沢本を、練習後できるだけ僕が一人になりやすいよう、意図的にやっているのではと勘繰った。他にもペナルティーの課せられた部員はいたが、達成できるまで僕が一番長くかかってしまいそうだった。

 案の定、その通りになった。一緒に後のほうまで残っていた秋川も達成して、監督に言われて片付けの準備を始めていた。みんな用具庫から、グラウンド整備用の”トンボ”(棒の先に細長い板が垂直についたもの)を出してきて、グラウンドの隅に集まっている。2、3年生は先にクラブハウスのほうへと帰された。待っているのはこれから片付けのある1年と、マネージャーだけだ。愛原さんはみんなで待つと言ったが、沢本に制された。後ろ髪を引かれるような素振りで、愛原さんは申し訳なさそうにクラブハウスへゆっくり歩いていった。その様子を、僕は1往復と1往復の間の短い休みに眺めやり、なんともいえない気持ちになった。彼にこんなみじめな姿を見せているという情けなさ、僕のことを気遣ってくれていることへの嬉しさ(それが先輩としての態度だとしても)、主将の彼に心配させてしまっていることへの申し訳なさ、そんな感情が同時に心の中で渦巻いた。

 沢本の吹く笛の音に合わせ、僕はグラウンドを行ったり来たりする。1往復ごとに膝に両手をつき、息を整えながら休む。タイムは上田さんが計る。沢本はあえてあおったりはしなかった。ただ黙って笛を吹き続ける。笛を吹く間隔も僕の状態を見ながら決めていて、普段の練習通りだ。あおって笛を吹くペースを上げ、ますます僕が遅くなるのを促したほうが、奴には都合がいいはずだ。そうしないのは、今はまだ教師の仮面を被っているからか。
「清太、焦らないで。休みながら自分のペースでいいよ」
 僕の疲労を見てか、沢本も気にせず秋川が言った。上田さんも「あと少しだ」と言ってくれた。その言葉に励まされながら、ようやく僕はノルマを達成した。終わった後は、みんな温かく迎えてくれた。


眠れる太陽、静かの海
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