「今日の監督、機嫌悪いな」
 グラウンドにトンボをかけ終わってロッカールームへ入ると、誰かが言った。
「ほんとごめん、みんな今日は」
 まだルームにいた愛原さんは言った。すでに着替え終わっている。ひどく落ち込んでいるようだ。
「そんな気にするなよ、愛原」
 横の上田さんが元気付ける。
「ほんとに俺、周りが見えてないのかもしれない」
「そんなことないって。監督が言い過ぎなんだよ。みんなお前のこと、悪いようになんて思ってないって。な、みんな?」
 部員は、僕を含めた皆「当たり前だ」と言いたげに頷く。
「そうだよ。とにかく今日はタイミングが悪かっただけだよ。監督の機嫌が直ったら、今度はみんなで言ってみようよ」
 高橋さんも続いた。
「うん・・・。とりあえず、今日はこれで帰るよ。じゃあ、お疲れさま」
 元気のない主将に、「お疲れさまです」と応える部員たち。その声には励ます意味も込められていた。僕もそうだ。そして彼はルームを出ていく。

「帰ろう、清太」
 着替え、帰り支度の終わった秋川は言った。その時には、他の部員はみんな帰っていた。
「ごめん、今日ちょっと広中先生に数学で聞きたいことあって」
 広中先生とは僕たちのクラスの担任で、数学教師だ。僕はあのメモを見た後に、こんな嘘を考えていた。テスト後なので不自然ではないだろう。
「あ、そう。職員室?」
「うん。部活後にってことになってて。だから先に帰ってていいよ」
「そう。じゃ、また明日」
 彼は不思議がる様子はない。
「うん、バイバイ」
 そんな会話をして、クラブハウスを出ると僕は校舎へ、彼は校門へと向かった。

 しかし構内に入り、秋川の姿が見えなくなると、僕は体育教官室のある体育館へと方向を変えた。
 行きたくないのはもちろんだが、僕は行くしかないのだ。
 体育館を使っていたであろうバスケ部やバレー部の生徒たちも帰った後らしく、中からは人声も物音もしない。館の校舎側には土足でも上履きでも歩ける廊下がついており、館の中に入る大きな扉を通り過ぎ、端の体育教官室の前へと僕は来、立ち止まった。耳を澄ますと、静かなものだった。エアコンの運転音だけが耳に届き、それが中に人がいる証拠だった。自然と息が荒くなっていく。夏の夕方特有の湿った空気が、背中にまとい付く。震えそうな右手で拳を作り、数回ノックした。次に「柊です」と掠れ気味な声を出した。すぐに「入れ」と男の声が響いた。恐る恐るノブを握り、ゆっくりと扉を開けると、教官室の机の前にある回転椅子にどっかと腰掛け、にやりとしている沢本の姿があった。膝の上で両手を組んでいる。

「来たか」
 その不気味な笑顔が、さらに嬉しそうに歪んだ。
「鍵を閉めろ。こっちへ来い」
 すぐには従わず立っていると、「閉めろ」と低い声で奴は繰り返す。
 僕は後ろを向いて、ノブの真ん中に付いた、捻る形になっている鍵を横に回し、閉めた。再び前を向き、ゆっくりと沢本のほうへ向かって歩いた。そして1メートルほどの距離を置いて立ち止まる。

「もっと寄れ。荷物を置け」
 言われ、僕は黙ってまた1歩前へ進み、かがんで、両肩にそれぞれ抱えていたバッグを床に落とす。一つは練習着の入ったもの、もう一つは通学カバンだ。すると沢本は立ち上がった。おもむろに僕を抱きすくめる。「ひっ」とそれは声にはならず、僕の喉からは息を吸った小さな音が出た。
「・・・全くあいつは・・・愛原って奴は生意気だな。いけすかない奴だ」
 僕を抱きすくめたまま、沢本は続ける。
「ますます犯してやりたくなったな。だがあいつにはそれが簡単にはできん。俺が襲えば、人に言うかもしれないからな。だがお前なら、できる・・・」
 僕は首を回して上体を引いた。奴が頬に口付けようとしたからだ。
「お前なら、誰にも言わないからな。今だって、言ってないだろう?」
 奴は捻った僕の横顔に向かって言う。僕は黙って頷いた。
「お前はあいつの代わりなんだよ。お前はあいつを、せいぜい守るんだな。さて・・・」

 沢本は僕から離れた。と、僕の右手を取った。そして自分のジャージの股間へと、近付けた。僕は驚いて手を引こうとした。が、奴の力がそれを許さない。とうとうそれに、僕の手の甲は触れた。嫌な、盛り上がった感触がそこにあった。
「もう、こっちはその気だろう? ほら、こんなに固い・・・」
 ますます奴は、その部分に僕の手の甲を押し付けた。奴の言った通り、それは持ち上がって固さを持っていた。
「い、嫌・・・っ」
 顔を背け、僕は必死で逃げようとした。だがもう片方の手を背中に回され、逃げられない。僕の体は奴に密着させられた。握られている手も、より奴のものに押し付けられる。
「ここでサービスしろ。この手か、口を使ってな・・・」
 沢本は僕の手を返させ、今度は掌が触れるようにした。

「嫌だ・・・!」
 その感触の気持ち悪さに身をよじり、僕はなんとか奴から離れようとした。しかし、どうしても叶わない。
「もう、我慢ができねえって言ってんだよ、俺のここは・・・。ここしばらく、お前を抱けなかったしな。今すぐ、俺のものをしゃぶれ」
 感情の高ぶりからか何も比喩を使わず、奴は直接的なことを言った。
「そんなこと、できない・・・」
 手は奴のものに無理矢理触れさせられながら、僕は首を横に振って怯えた声で拒んだ。
「やれ。お前のこの可愛い口で・・・」
 背中に回されていた手が動き、僕のあごを掴んだ。
「嫌だ、嫌・・・っ」

 しかし言葉の最後のほうは、奴の唇に塞がれて遮られた。奴はそのまま、舌を僕の口中深くまで突き入れた。
「ふっ・・・んっ・・・」
 あごにあった手がまた背中に戻ったので、僕は逃げられない。唇を奴に預けるしかなかった。
「ここじゃできないっていうんならな、ホテルに行くか?」
 僕の唇と舌を味わった後、奴は言った。
「・・・」
 興奮して息を荒くし、僕は答えないでいた。
「ホテルに行くんなら、口でやるのはなしにしてやる。その代わり、俺の思い通りにさせてもらう。さあ、決めろ。ここか、ホテルか。俺を満足させる場所を」
 その低い声が、エアコンの音だけがしている教官室に響いた。


「俺は鍵を職員室に戻しに行く。お前は先に駅に行ってろ。改札の前で待て」
 クラブハウスの鍵を閉めると、沢本は言った。
「あ、の・・・。家に、電話かけさせて・・・」
 奴の横で、俯いて僕は請うた。
「なら、外の公衆電話を使え」
 少し考えてから、奴は言った。
 校舎へと向かっていく奴の後ろ姿を見やりながら、校門へ向かった。歩道へ出て、やがて電話ボックスのところまで来ると、中に入る。それは登下校の時にいつも見かけていたが、あまり使ったことはなかった。

「あの、母さん? 今日、遅くなるから・・・。練習も長くて、これからちょっと、友達と遊びに行くから・・・」
「あら、そうなの。遊ぶって、どこに?」
 母は軽い感じで言ったが、どこか残念そうな感じも入っていた。
「ゲームセンターとか。テスト明けだから、はしゃぎたくなっちゃって」
「そう。しょうがないわね、もう。お夕飯は作っておいていいのね? あんまり遅くなりすぎないようにしなさいね」
「うん、分かった。じゃあ・・・」
 そうして、僕は電話を切った。僅かながらも母の温かい声を聞き、僕の心はその間”日常”に浸(ひた)り癒された。しかしそれは、間もなく崩される。電話ボックスを出ると、僕は駅に向かって歩き出した。しばらくして聞こえてきた背後の足音に振り向くと、ジャージを脱いで通勤用の姿になった沢本がついてきていた。僕が止まると、手を振って先へ行くよう奴は促した。僕らは夕方の歩道を、距離を置いて歩いた。

 二人で電車に乗り、生徒など学校関係者の目を逃れるためか、沢本は何駅も乗って、僕を学校から離れた場所へと連れていった。車内は帰宅途中の学生やサラリーマン、OLなどでひしめく。ここでも奴は、自分とは距離を置いたところに僕を立たせた。僕はただ黙って、窓外の夕方の景色を見ていた。日はまだ落ちてはいない。時折自分の顔が映ることもあって、その顔は沈んでいた。
 降りたことのない駅に着きそうになると沢本は目配せし、声は出さず口の形だけ「降りるぞ」と動かした。
 しばらく駅前を歩き、少し寂しげな場所に出ると、道の左側にネオンの灯ったホテルがあった。その黄色いネオンの色がぎらぎらと、僕にはいやらしく映った。

 受付カウンターの従業員は、30代半ばくらいの男だった。僕は顔を見られたくないので、沢本の後ろで俯いて立っていた。部屋を告げられ、鍵を渡された沢本の後を歩いた。古びたホテルで、色あせた廊下の壁紙が剥がれているところもあった。
「脱げ」
 部屋に入り、荷物を据え置かれたソファーの上に置くと沢本は言った。僕も荷物をそこに置く。
 沢本が先に脱ぎ始めた。上には薄い青色の半袖シャツを着ていた。そのボタンを、荒々しく外していく。それを見て、僕も何も言わずに制服を脱ぎ始める。抵抗が無駄だと分かっているからだ。

 二人とも裸になると、沢本は僕の肩に腕を回し、バスルームへと連れていく。
「ホテルは初めてか?」
 シャワーから出るものがお湯になるのを待ちながら、奴は言った。
 何も言わない僕に、奴は僕のあごを掴んだ。
「どうなんだ?」
 それでも僕は不機嫌に眉を歪めたまま、言葉を発しない。初めてなもんか、と思いながら・・・。僕は好きな人と行ったのだ、初めてのホテルは。そのことが僕には小さな救いだった。
「どうした? だんまりなんか決め込んで・・・。学校出てから、一言もしゃべってないな」
 やがて水は温まってき、お湯に変わった。そのお湯が、僕の顔に浴びせられた。僕は顔をしかめる。沢本はノズルを持ったままにやりとした。それをホルダーにかける。お湯はいったん止めた。
「これならどうだ?」
 僕の後ろに回り、僕のものを右手で強く掴んだ。それだけでなく上下に動かし、刺激し始めた。
「やっ・・・やめろっ!」
 たまらず、僕はとうとう声を出した。「ふん」と沢本は鼻で笑う。


眠れる太陽、静かの海
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