次の日、僕は1日学校を休んだ。
 体の痛みは一晩寝てなんとか引いたものの、みんなとは会いたくないし、第一沢本なんて見たくもない。あいつは人間のクズだ。少年の恋心を利用して、あんなことするなんて!! 別の問題でも起こして、さっさとクビにでもなればいいんだ。
――こんな時、あの人がそばにいて慰めてくれたらな。僕の前髪をそっと掻き揚げてくれながら、優しい言葉の一つもかけてくれたら、昨日のことなんて全部忘れられるのに。もっとも僕は、あの人を守るために自分を投げ出したのだが・・・。
 だって、好きなんだ。凄く、好きなんだ。あの人がいるから、毎日の辛い練習も耐えられるんだ。「生きてる」って感じられるんだ。愛原さんみたいになりたくて、あの人がいたから僕は・・・。

 両親は仕事で、今は家にいない。僕一人だ。父は会社員で夜まで帰ってこないし、母は近くのスーパーまでパートに行ってるから、夕方までは帰ってこない。母は週に2、3回だけ働いてるんだけど、今日はその日に当ってて、助かった。母と一日顔を突き合せるのは、辛かったから。
 いつも朝練があるから、僕は毎朝早く起きてるんだけど、今日はなかなか起きてこないので、母が2階の僕の部屋まで起こしに来た。僕は布団を頭から被って、体がだるいし寒気がするって言ったら、納得してくれた。
「じゃあ、『風邪で休みます』って、電話しておくわね。母さん出かけるけど、ちゃんとおとなしく寝てるのよ。一人で大丈夫ね?」
 朝食と風邪薬を一度下に降りて2階に持ってきた時、母は言った。
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから・・・」
 僕は顔だけ布団から出して、早く行ってくれないかと思いながら、答えた。風邪薬に目をやると、母を騙(だま)してることに、心が痛んだけど。
 それで、母は仕事に出かけた。(父はそれより早く、家を出ていた)

 昨日の出来事? 親に話せるわけないじゃないか。僕が、男が好きな人間だって、知らないんだから。
 小さい頃から好きな男の子ができても、女の子だって適当にごまかして言ってきた。そのごまかして使った名前の、同じクラスの女の子が誕生日にプレゼントくれたりしてさ。告白されたこともあったけど、はた迷惑な話さ。僕は母に対してと同じくらい、いやそれ以上女の子に、性的魅力を感じないんだから。僕にとって女っていうのは、そのへんの電柱や石ころと同じ価値しか持たない存在なのさ。僕を生んでくれた母には感謝してるけどね。

――それにしても、今日は誰にも会いたくない気分だ。沢本の奴、今頃平然といつもと同じように、生徒に厳しい特訓してやがんだろうな。あんなごろつきが高校の教師で、しかもサッカー部の監督だなんて・・・。世の中どうかしてる。主将の愛原先輩も、あいつの本性知らずにしごかれてるんだろうな。1年ほどじゃないけどさ。――あいつの言ったことは、本当だよな。愛原さんが、レギュラーを条件にしてあいつのいいなりになるなんて、あるわけがない。あの人はそんな人じゃない。

 なんて考えてたけど、時計はまだ12時前を指していた。じゃあ部活の午後練まで、まだ相当あるってことか。朝練よりは、午後練のほうがきついんだ。時間も長いし。
 母が出かけた後、僕は一眠りしたから、まだ朝食に手を付けていなかったのだが、再び起きてこうして考えごとしてたら、さすがにおなかがすいた。それで、ちょっと固くなったトーストや冷えたスクランブル・エッグ、サラダに牛乳を口へ運んだ。風邪薬はどうしようかと思ったけど、一応飲むことにした。風邪でもないのに薬を飲んだのは、初めてだ。

 遅い朝食を終えると、またベッドに身を横たえた。――そうしていると、昨日の体験が、まるでフィルムを再生させるように、思い起こされてきた。体中、手や舌であいつに愛撫された後、あの時もこうして、ぼんやりと天井を見ていた。明りを点けていなかったので、蛍光灯のまぶしさはなく、僕はあいつが僕の中にいる間、ずっと冷たげな蛍光管の列を見ていた。時折目を閉じたり、あいつの顔が目の前に来たりして、見えなくなったけど。
「ああっ」
 あいつの、いやらしく満足げな表情を思い出すとたまらなくなって、小さく叫び、思わず跳ね起きた。顔を両手で覆い、そのまま手を上のほうまで滑らせ、髪を指の間から出しながら、頭を抱えた。息遣いも、自然と荒くなってきた。
 家にいてもますます落ち込むだけだ。僕は街へ出かけることにした。高校生よりちょっと年齢が上に見える格好をして、ゲーム・センターにでも行こうと思い、家を出た。


 電子音の、高く大きな響きの飛び交う中、僕はレーシングカー・ゲームのシートに座ってコインを入れ、ハンドルを握った。僕はこの手のゲームが得意なんだ。このスピード感、臨場感、免許をまだ持てない年齢の僕には、爽快なゲームだ。
 これが終わると、シューティング・ゲーム、パズル・ゲームなんかを次々と楽しんだ。
 ある一台のアクション・ゲーム・マシンの前に座ると、いきなり横の椅子に見知らぬ若い男が腰かけてきた。
「このゲーム対戦型だろ? 一人より、二人でやったほうが楽しいよ」
 男は言った。
「え、あ、そうですね・・・」
 なんだこいつは。僕は思った。ゲーム・センターの達人か? こういう奴がいるもんなんだな。
 僕は男の顔をまじまじと見た。サングラスをかけていたけど、身なりは黒いポロシャツをきちんと着こなしてて、大学生って感じだ。もしそうなら、きっと今日は授業がない日なんだろう。
 男はコインを入れ、”2PLAY”のボタンを押した。ゲームが開始された。こいつ意外と強い。やっぱり達人かも。――負けた。
 その後も、男は僕の後に付いてきて対戦型ゲームをやりたがった。コインはみんな、この男が入れた。――どれも負けてしまった。変な奴に捕まってしまったものだ。

「あなたも暇な人だね。相当、ゲームに慣れてるみたい」
 いくつ目かのゲームで負けた後、僕は少し気を許して言った。
「学校終わってからとか、たまに来るもんでね。今日は午前中だけだったし。・・・君も大学生?」
「え? あ、フ、フリーター・・・みたいなもんかな」
 僕は慌てた。高校生が、昼日中からサボってこんなとこ来てるなんて分かったら、不良だと思われるもの。
 そういう僕の慌て振りを見ながら、男はサングラスを取った。浅黒くて二重まぶたで目の大きい、いわゆるサーファー系の顔立ちだ。髪は下のほうは刈ってて、上のほうは長めで、緩いパーマがかかっている。彼は取ったサングラスを豊かな髪の中に差した。
「ね、これからちょっと場所変えて遊ばない? いいとこ知ってるからさ」
 彼は白い歯を見せた。
「そりゃ、今日は暇だけど・・・。どこ行くの? 海?」
 サーファーっぽく見えるから、思わず僕はこう聞いた。
「いや、海じゃないけど、すぐ電車で1本だよ。そこカラオケもあるから楽しいよ。安いしさ」
 どこなんだろう? カラオケ・ボックス? いや、カラオケ「も」ってことは違うな。「安い」ってことは、クラブとかディスコみたいな、派手なとこかな。まぁいいや、今日は落ち込んでるところだし、パァーッと騒いで元気を取り戻そう。たとえ今日だけでも。
「いいよ。あんた遊び人風だから、きっと明るくて楽しいとこなんだろ? 行こうよ」
「それは君次第だよ。・・・じゃ、行こう」
 サーファー男(と、僕は勝手に呼ぶことにした)のゲームの達人は、意味深に言ってマシンの椅子から立ち上がった。


「ここだよ。この地下」
 そこはM駅の繁華街から少し外れた、静かな一角にあるビルの一つだった。地下への小暗い階段が続いている。僕は達人の後に従って、恐る恐る下りていった。重々しい木造りの濃緑のドアに力を込め、男は開けた。鈴の乾いた音。「いらっしゃいませ」という、聞こえるはずの声が聞こえてこない。ここは果たして店なのか?
 中に入ってみると、喫茶店だかクラブだかバーだか分からないけど、止まり木の席と、普通のテーブル席とがあった。照明の暗いところだな、と思った。男は僕を促し、そばにいた、ボーイ風のひょろ長い痩せた印象の男に何か小声で告げてから、先に立って一つのテーブル席へと近付いた。

「何飲む?」
 椅子に落ち着くと、彼は聞いた。
「ねぇ、ここあんまり明るい雰囲気の店じゃないね。客も、男客がまばらに座ってるだけだし。それともこれから、何か始まるの?」
 彼の向かいの席に座り、出されたおしぼりで手を拭きながら、僕は言った。
 男はフフッ、とテレビドラマの人気俳優のような含み笑いを漏らしてから、こう言った。
「そう、始まるよ。これから、そのドアの奥に入れば分かる。・・・まぁ、とりあえず何か飲みながら、楽しみにしてなよ」
 目を、店の奥にやった。僕もつられてそっちを見ると、地味な茶色いドアがあるだけだった。
 何がなんだか、さっぱり分からない。
「やだなあ、もったいつけて。教えてくれないの? なんで?」
 僕は困った顔と、笑顔とが混ざったような顔をしてたと思う。
「いいから。ほら、メニュー見て」
 どうしても明かしてくれないので、僕は仕方なくメニューを手に取り、目を通した。

 飲み物を注文すると、僕は男とゲームの話なんかしながら、この場は彼にリードされるしかないと諦めて、ドアの向こうに、明るく楽しい音楽やダンスでもこの後待っているのかと思って、呑気に笑ったりした。その時僕は、はめを外してアルコールを頼んでしまっていた。自分が酒に弱い人間であることも知らずに。後はサーファー男の思うがままだった。僕は今までにテレビなどで見た、ディスコやライブ・ハウスとかの華やかな情景を頭に思い描きながら、いつしか眠気に襲われて、壁に寄りかかって眠ってしまったのだ。
 誰か(おそらくはサーファー男)に体を抱えられ、どこかに運ばれる気配は意識の片隅で感じ取っていたけれど、そこから先は深い眠りの底に落ちていった。・・・

 何やら僕の口の中でうごめくものがあって、僕の力ない舌が絡め取られているなんともいえない異様な感触に、僕は目を覚ました。とてもびっくりした。サーファー男のどアップが目の前・・・いや正確には目の上にあって、しきりに僕とディープ・キスを交わしていたのだ!
 全てはもう遅かった。着ているものはすでにみんなはがされ、大きなダブル・ベッドのシーツの上に僕は横たえられていた。サングラスを頭から取ってそばのサイド・テーブルの上に置き、裸になった男が僕の上にいた。彼の体の重みが、この時はっきりと伝わってきた。
「お目覚めかい?」
 ちょっと気障(きざ)に、彼は僕の怯えた目を見ながら言った。
「あんた・・・同類だったのかい?」
 怒って叫ぶべきところを、半ば諦めの気持ちを含めて僕は冷静に言った。
「うん、君もそうなんだね。・・・良かった。あっち側の子だったら、今頃俺は突き飛ばされてるもんな」
「本当は突き飛ばしたいよ。でも、力が出ない。・・・あのカクテルの中に、何か入れたんだろ? あのボーイに頼んでさ」
「ごめん。こうしてでも君が欲しかったんだ。ゲーセンで見かけた時から。君がどっち側の人間だろうが、俺は君の美しさに・・・」
 言いながら、激しく僕の唇にむしゃぶりついてきた。「俺のこと、ひどい奴だと思ってる?」とか、「嫌いかい?」とか、時々唇を離して、彼は聞いてきた。

「ううん、嫌いじゃない・・・」
 僕はこう答え、彼の唇を受け入れた。
「もっと、強く抱いて・・・」
 何故か分からないけど、この時僕は沢本のことも愛原さんのことも完全に考えないで、彼の浅黒く日焼けした、逞しく鍛えられた背中に腕を回し、熱いキスに酔いしれた。どうしてこんなに素直なキスができるのか、自分でも分からなかった。いつしか、目尻からは、涙が流れていた。
 彼の体を両脚で挟んで、彼の間隔の短い荒い呼吸を聞いている時も、僕の心には拒絶という言葉も嫌悪感という言葉もなかった。あまつさえ僕は積極的に自分の腰を揺らして、彼の動きを助けたのだ。


眠れる太陽、静かの海
2-1