「・・・海へはよく行くの? 海は・・・好き?」
彼の広い胸に手を置き、上下が正常に戻りつつあるのを感じながら、僕は聞いた。
乾いてきた無数の汗の放つ香りが、潮のそれのような気がしたから。
「やっぱ、そう見える? 休日には友達と、湘南のあたり中心に出かけていって、真っ黒に焼けて帰ってくるよ」
「サーフィン? それともダイビングとか?」
「波に乗ってる。中学から友達の兄貴に教わってね。俺がこの世界に入ったのも、その人の手ほどきさ」
「じゃ、あんた、初めは向こう側の?」
僕はちょっと驚いた。
「ん〜、ていうか、初めてその人に抱かれるまで、自分がどっちの人間か、知らなかっただけかもしれない。・・・一度知っちまったら、抜けられないやな」
言いつつ、彼に比べれば小さい僕の肩を抱いていた片腕に、力を込めた。そそられた僕は起き上がり、染色か脱色か日焼けか、そのどれかで赤茶けている彼の波打った髪を両手で掻き分けながら、自分のありったけの愛情を込めて彼の唇に自分のそれを捺(お)した。彼は舌を使おうとしたけれど、僕は、
「ディープは嫌。このままでいて・・・」
と囁くように言い、呼吸をするために時々唇を離しながらキスを続けた。彼の唇の丸み、彫刻の感じを、触れることで完全に覚えたかったのだ。最初で最後の相手かもしれないという不安と予感とが、僕にそうさせた。だってこういう軟派風の人は、一度きりでどんどん相手を変えそうなんだもの。
沢本の野郎はいけすかないただのケダモノで、嫌でしょうがないけど、この人の天性の野性、本能をあくまでも人間的に曝け出して、相手を満足させるっていう不思議な魅力の前に、何故か僕は、僕の体は逃げられない。僕の本当の姿を引き出してくれそうな気がして、全てを投げ出したくなるんだ。
前に沢本は男を知り尽くしてるっていった気がするけど、実はあいつは振られっぱなしで、あまり場数を踏んでないんじゃないか。だってあんないやらしい言葉しか吐けないし、いやらしい態度しか取れない奴だもの。自分がもてないもんだから、どうにかして相手を手に入れようと、人の純愛を踏みにじるような卑怯な真似が、平気でできるんだ。
今日のこの人には、カクテルに入れられた薬で結局は(はた目から見れば)犯されたことになるけど、僕の心にはちっとも怒りが湧いてこない。僕が目を覚ました時、拒絶して突き飛ばしても良かったはずだし彼もそれを覚悟していたのに、そうすることはできなかった。
だってあの時、彼は今までに見たことがないような、とても悲しい目をしていたんだもの。”哀願する”っていうのかな。逆らえない瞳の力に、僕は圧倒されてしまった。「この人をもっと知りたい」って、直感的にそう思った。
突き飛ばせなかったのを薬のせいにするのはたやすいことだ。でも、決してそれだけじゃないんだ。――僕は彼を愛してしまったんだろうか。
僕の彼への愛は、まだ形がはっきりしない。彼のほうはどうなんだろう。僕に一目惚れをしたふうなことを、さっき聞いたような気がするけれど。
――愛原先輩。一目惚れといえば、僕はあの人にこそそれをしたんだっけ。あの人のことを誰よりも好きだから、沢本の野郎とも我慢して寝たのに、今僕はどうして彼のことを忘れて、こんなことをしてるんだろう。できるんだろう。
強いていえば、愛原さんへの愛は精神的なものが先で、それが募って「キスをしたい」とか「抱かれたい」って熱い願望が湧いてきたのに対して、このサーファー・ボーイの場合は、まず瞳で犯されて、体で愛を交わして、精神的なものは、今育ちつつあるみたいだ。
今僕は、この野性的な魅力を持ったサーファー・ボーイと、別れたくない気持ちで一杯なんだ。このままずっといつまでも、裸のままで二人横たわっていたい。
――5分以上の長いキスの間、そんなことを考えていた。
ジリリリリリリリ・・・と、突然けたたましいベルの音が部屋中に鳴り響いた。
何ごとかとキスをやめ、驚いて二人とも周りを見回すと、少し離れたテレビの横の台に目覚し時計があって、それが激しく叫んでいたのだった。きっと前にこの部屋を使った人たちが、泊まりか何かで起きる時刻をセットしていたんだろう。何かの拍子にまたスイッチが入っちゃったんだ。
僕が上になっていたのでしぶしぶ立ち上がり、怒りを込めて思い切りスイッチを叩くと、しゅん、という感じでベルが止まった。
時刻は5時ちょうど。前の奴らは、午前5時に起きてそそくさと家に帰ったか、学校や勤めに行ったんだろうな。ずいぶん早起きだな。慌てるその見知らぬ二人の情景を思い浮かべて、僕は思わず笑いを漏らした。それを聞きつけた彼が、何故笑ったのか聞いてきたので僕は今の想像を話した。
彼も、夢と現実とを無理矢理くっつける意地悪な機械をちらと見やってから、笑った。その何気ない笑顔が、僕にはたまらなく美しく輝いて見えて、胸がきゅっとなった。
これはもう紛れもない、新たな恋だ。この時僕は確信した。
現実の世界に戻るため、僕たちは窮屈な服に身を包んだ。
もしかしたらこのまま捨てられるかもしれないという不安を抱きながら、僕は彼の名前と電話番号を恐る恐る尋ねた。
「またあのゲーセンにおいでよ。毎週、金曜は半ドンだからさ」
彼はどちらにも答えてくれずに言った。金曜は普段なら当然授業だし、部活があるから逢えないよ。僕は日曜しか空いてないんだ、今のところの部活のスケジュールじゃ。
「平日は空いてないんだ。日曜は?」
「毎週、友達と海に行くことになってんだ、日曜は」
「空けられないの?」
「君がどうしてもっていう時には空けてもいいけど。じゃあ、君の電話番号教えてよ」
「でも・・・、両親と暮らしてるから僕のいない時にかけられたりするとやばいなあ。ポケベルも、持ってないんだ」
「それじゃあ連絡がつかないね。俺も、ベル持ってないし。・・・今日限りで終わりってことか」
彼はつれないことを言った。
「ね、一人暮らし? (彼は頷いた)それなら、そっちが番号教えてくれるのが一番いいってことじゃん。簡単なことだよ」
「・・・」
一瞬黙りこくってしまった彼を見て、僕は彼に何か秘密があるんだと悟った。
彼は片手を頭の後ろに回して、照れ臭そうな、困ったような素振りをした。
「・・・実は、言いにくいことなんだけど・・・、半同棲してる相手がいるんだ」
「え・・・? ほんと・・・?」
ちょっと裏切られたような気がしたけど、もてそうな彼なら、それもあり得た。
「うん。そいつやきもち妬(や)きでね。俺が他の男とキス一つしようものなら、冗談か本気か分からんけど、首を絞めてくるんだよ。俺はそんな奴の目を盗んで、こうしてスリリングな浮気をしてるってわけさ。別に俺はそいつ一人を好きってわけでもないのに、奴はすっかり女房気取りで、俺を”内縁の夫”みたいに扱ってやがる。・・・だから、外から男の電話があれば、同級生だろうが誰だろうが、必ず問い質されるんだ」
「じゃあ、さ。どうすれば、今日みたいに逢えるのさ?」
「君、今日はバイトが休みなんじゃないのかい? 今日は金曜だ。さっき、平日はだめだって言ってたけど」
「き、今日はたまたま休みで・・・。とっ、とにかく、僕は日曜じゃないとだめなんだ!」
ああ、我ながら子供っぽい態度! 年上の彼にいつ年を見抜かれてもおかしくないや、これじゃあ。
僕はベッドのへりにどすん!と音とほこりを立てて座った。彼はそんな僕の子供っぽさをどう思ったのか知らないけど、見下ろしながらこう言った。
「・・・分かった。今度の日曜はだめだけど、その次は一日、君のために空けてやるよ。その先のことは、またその時決めよう。それしかないだろ?」
また逢える・・・! この嬉しさに、僕は喜色満面の顔を振り上げて、彼に同意を示した。18、9のフリーターだと偽り通そうとするのも忘れて、15歳の少年らしい笑顔を自然に出してしまったのだ。
時間と場所を決めると、部屋を出ようと僕はドアのほうへ向かった。すると彼が後ろから呼び止めた。
「あ、待って」
振り返る僕。
「もうちょっと、話しない?」
「ん・・・。ごめん、早く帰らないといけないんだ。ちょっと、いろいろあって・・・」
彼のほうから引き止めてくれたのは凄く嬉しいけど、そろそろ出ないと、母が帰ってくる時間になってしまう。僕は家で寝てることになってるからね、本当は。
「でも・・・君の名前、まだ聞いてない。さっき俺が聞かれた時、名乗らない仲でもいいかと思って言わなかったけど・・・気が変わった。俺は、光樹(こうき)・・・君は?」
「清太・・・」
初めて聞く彼の名前を耳に残しながら、僕は答えた。
部屋を出ると、廊下がある。向かい側にもこちら側にも、同じようなドアがいくつか並んでいた。今も、今日の僕たちと同じように、愛し合っている者たちが中に何組かいるのだろうか・・・と僕は思った。廊下の突き当たりに、茶色いドアがある。ここを出ると、最初に入ってきたバーがあるのだ。
「ね・・・ここって・・・」
僕は聞きかけたが、彼は微笑むだけだった。
「・・・電話番号・・・どうしても、だめ? もし、約束の日に何かあったら・・・」
彼の横で歩き始め、顔を伏せがちにしながら、僕はもう一つの質問をした。
もし何かあったら、彼と二度とは逢えなくなってしまう。
すると彼は少し考えて立ち止まり、もう一度部屋へと引き返した。
「そこにいて」
と言い、彼は部屋の中へと消えた。
再び出てくると、彼の手には小さな紙が握られていた。
「書くもの、中にあったから良かった。これ・・・。やっぱり、必要だよね」
そっと遠慮がちに、僕に渡した。見ると、そこにはボールペンで書いたらしい、走り書きの数字が並んでいた。
M駅から電車に乗り、僕の家の最寄駅で、僕たちは再会を約してそれぞれの生活へと戻っていった。電車のドア越しに、彼は笑って小さく手を振ってくれた。
彼と別れてから、僕は心の中で、何度も彼の名前を繰り返し呟(つぶや)いていた。
眠れる太陽、静かの海
2-2
|