二人の男と関係を持ってしまった。それも、たった二日の間に。本当の本命とは、まだ手を繋ぐことさえしていないのに。
 僕はまるで、江戸時代の遊女のように、好きな男のことをそっちのけで他の男と寝ることができる素質を持っているらしい。―― 一人は、不本意なのだけれど・・・。
 愛原さんのことは今も変わらず想ってるし、練習の時、いつも視線は走る彼の姿を追っている。でも僕は一歩が踏み出せない。彼を前にすると、固まってしまう。まともに口を利いたことすら、ほとんどない。告白して、もし彼が向こう側の人だったら・・・と思うと、怖くて何も言えないのだ。もし拒絶されたら、軽蔑されたらと思うだけで、身が竦んでしまうのだ。

 僕らの時間は、僕が入学してから流れ出したのではない、ということも、僕は彼に秘めたままでいる。
 彼は僕の理想だった。男に生まれたのに、僕の中身はまるで女だった。だから男らしくなりたくて、両親の勧めもあってサッカーを始めた。
 彼と出逢った時のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。この高校に入学してから僕は、彼と同じ時間を過ごすことの幸せ、それをかみしめていた。
 彼は明るくて、優しくて、頼りがいがあって、エース・ストライカーなので、部員みんなに慕われている。憧れられている。僕も、その中の一人に過ぎないのだ。彼に受け入れられることは夢なのかもしれない・・・そんな予感を毎日感じていながらも、僕は彼といるだけで、楽しかった。
 でも彼は卒業してしまうんだ、来年の春に。それまでに僕の想いを伝えるのは、罪なのだろうか。

「・・・ぎ、柊!」
 思考を破られ、はっとした。
「いつまで休んでるんだ。次はミニ・ゲームの準備だと言ったろう?」
 沢本の声に周りを見ると、体育座りで休んでいたのは僕だけだった。ドリブルやシュートなどの個人技術の練習をした後の休憩時間だったのだが、他のみんなはもう、ミニ・ゴールを引き出すために倉庫に走ったり、ビブス(チーム分け用のベスト)を手に取ったりしていた。
「早くしろ」
 沢本は続けて言った。
 ぼーっとしてた僕も悪いけど、なんだよ、監督面しやがって。立ち上がりながら、思った。生徒を威して、無理矢理関係を続けようとしてる、最低な奴なのに。
 あれから僕は、沢本のことも怖くてしょうがない。奴の言う「今度」はいつなのかと、そればかり考えてびくびくしてしまうのだ。奴はあの後も何事もなかったかのように、毎日サッカー部の練習で指導している。あの事件も、誰に知られることもなく日々が過ぎている。
 この男が、僕らの幸せな時間を止めたのだ。もう、元には戻れない。
 それに愛原さんは高校生活最後の年で、これからいろんな大会が待っている。サッカー部が大会に出るために、僕はあのことを誰にも黙っているしかない。愛原さんだけでなく、僕はサッカー部全体をも守らなくてはならないのだ。今、僕はどうすることもできない。でも、いつかきっと奴の鼻をあかしてやる。シッポを出させてやる。

 ゲームの準備をしようと、僕も体育倉庫に走ろうとした。だが、沢本の横をすり抜けようとした時、奴は言った。
「さっきのリフティング、がんばったじゃないか。あんなに続くなんてな、お前が・・・。それにドリブルも良かった。・・・サッカーのほう”も”上手くなってきたな」
 にやりと笑みを作った。
 湧き上がってきた不快感と怒りとを押し殺し、僕は奴を無視して走っていった。
 ミニ・ゲームが始まり、別のミニ・コートで相手のゴール前を突破しようとしている愛原さんを見つけると、心が少し鎮まった。と同時に、胸が締め付けられた。彼の前髪が風になびいて、汗で濡れて光っていた。
 目下のところ、僕は彼を瞳で愛することしかできないのだ。

 
 約束の日曜日、光樹とあのアクション・ゲーム・マシンのところで待ち合わせた。
 僕が先に着いて、1PLAYで遊んでいた。約束の時間は11時。5分前だけど、彼はまだ来ない。でももし遅れても、電話番号は分かっているから、連絡はできる。
 昨日の夜、僕は初めて彼の家に電話をかけた。翌日の確認をしたかったからだ。出たのは幸い彼だったが、いきなりかけられて少し困っていたようだった。もし、半同棲の相手がいる時だったら・・・と。僕はかけた後反省した。ただ彼の声が聞きたくて、考えなしにかけてしまったのだ。

 彼は電話口で言った。
「前に言った、同棲相手のことなんだけど・・・。あいつには、来る時は前もって電話しろって言ってあるんだけど、もしものことがあるからね。これから言う時間と曜日にかけてくれるかな? あいつが出ちゃうと、やっぱまずいから・・・」

 それで、大丈夫な時間帯を教えてもらったのだ。僕の電話番号も、その時光樹に教えた。
 まだどんな人か詳しくは聞いてないけど、今日もその人はレポートの資料探しに図書館へ行っているそうだから、平気なんだ。
 コンピュータの敵と3回戦で負けて悔しがってるところへ、彼は現れた。今日はモス・グリーンの細身のシャツに黒っぽいパンツで、彼の野性的かつ精悍な風貌に、とてもよく似合っていた。
「よう、待ってた?」
「別に。ちょうど11時だしね」
 僕らはゲームはせずにゲーム・センターから出て、電車で数十分で行ける近くの海へ行くことにした。

 海開きを目前に控えた海岸では、水遊びの家族連れや、シートを敷いて海を眺めている男女のカップルなどが浜辺や防波堤の階段に、ビーチ・バレーをする若者たちは浜の真ん中あたりに、サーファーやボディーボーダーたちが沖のほうに、そこかしこでそれぞれの遊びに興じていた。海水浴客がいないせいか、サーファーが特に目に付いた。
 僕らは浜辺とは少し離れて、遊んでいる人たちを砂浜に立ち止まって眺めたり、再び歩き出して砂浜に靴跡の列を付けていったりした。曇り空の僕らの頭上を、カラスが何羽か飛んでいった。カラスたちは人間の食べ物を狙っているのか、その辺に立っている木の杭の上にも止まっている。光樹は、空に目をやった後視線を下に移して、沖にいるサーファーたちを眺めた。

「いつもの海仲間も今日はここへ? もしかして、あの人たちがそう?」
「いや、だったらここへは来ないよ。今日は鎌倉のほうだ」
「・・・ごめんね、僕のわがままで仲間との約束だめにしちゃって・・・」
「いいよ。そん中でこっち方面の男はほとんど俺だけみたいなもんなんだけど、そいつらも俺を自分たちと同じ女好きだと思ってるからさ、時々合わすの疲れるんだ。波乗りん時はみんなそれに夢中になってるからまだいいけど、ちょっと食事だのなんだのでファミレスとか入ると、自分の彼女がどうのって話し始める奴がいて・・・。だから、たまにはこういう日があったほうが俺としては嬉しいね」
「カミング・アウト、まだしてないんだ」
「うん。まあ、気付いてる奴もいるかもしれないけどな。でも、公言はしてないけど、知ってる奴もいるよ。高校ん時の友達何人かと、・・・この間話した、俺にサーフィン教えてくれた人。まあ、この人は”知ってる”ってのとは違うけどさ」
 光樹はパンツのポケットに手を突っ込んで、笑った。

「その人とは、どうなったの?」
「今も変わらず、兄貴分と弟分だよ。昔から、恋人同士って感じではなかった。あくまでも、俺の最初の相手っていうか・・・。今でも普通に、サーフィンのことじゃ世話になってるよ」
「年上の友達って感じ?」
「うん、そうかな」
 言って、光樹は海側を歩きながら僕の右手を握った。急なので僕は驚いて、「あっ・・・」とすぐに手を解(ほど)いてしまった。
「え? あ、人前じゃ嫌?」
「ん・・・。ごめん・・・。僕、まだ慣れてないから・・・」
 顔を赤らめる僕。実際、少しでも好きな人にこうして手を握られるのは、初めてだった。
「そう。じゃ、今は彼氏とかいないんだ」
 一瞬愛原さんや沢本のことが頭に浮かんだけど、僕は頷いた。
「良かった。・・・でもまさか、俺が最初じゃないよね? 君すごく可愛いし、この間だってあんなに・・・」
「やだ、もう・・・っ」
 彼が最初の相手だということにしたかった。沢本がそれだなんて、認めたくない。でも、初めてじゃなかったことは、もう彼には分かっているんだ。
「そりゃ、初めてではない、けど・・・」

「あ」
 彼は急に走り出し、下に落ちている何か黒いものを拾った。僕も後を追って軽く走った。
「何? なんか見付けたの?」
 光樹の手元を見ると、黒くて小さい、イルカの背びれみたいなものが握られていた。干からびた海草がこびりついているのを、彼は丁寧にむしり取ってみせた。
「これさ、サーフボードのボトム――裏っ側に付いてるスケッグっていって、舵の役目を果たすものなんだけど・・・誰かが折っちゃったやつだよ」
「ふうん・・・流されてきたんだね。よく折れるものなの?」
「理由はいろいろあるけどね。波が大きすぎる時とか、テクニックに失敗した時とか。俺も、結構あるよ・・・あっ」

 また何かを見付け、彼は少し行ってかがみこんだ。今度は空き缶だった。そのそばには、花火の燃えかすや、お菓子の空き袋などが散らばっていた。それらを彼は拾い始めた。
「な・・・何やってるの・・・?」
「見ての通り、ゴミ拾い」
 僕に背中を向けながら、彼は答えた。ゴミで手が一杯になると、底の破れていないビニール袋をその辺から探して、その中に入れ始めた。
「変な奴だと思ってるだろ? デート中にいきなりゴミ拾いなんて・・・。許してよ、こういうの見ると、だめなんだ。条件反射みたいなものでさ。昨日、花火してそのままで帰っちまった奴らがいたみたいで・・・」
 そんな彼の姿から、僕はサーファーの、海に対する気持ちを垣間見た気がした。
「ううん、全然変じゃないよ。僕も手伝うよ」
 それで、二人してその辺をできるだけきれいにした。僕らは気付くと、軽く汗をかいていた。立ち上がって周囲を見回し、ささやかな満足感でお互いの顔を見合って、笑った。
「光樹、あごが汚れてるよ」
 たぶん、手で汗を拭(ぬぐ)った時に付いたんだろう。
「え、ほんと? じゃ、手と顔、あそこまで洗いに行こう。これの捨て場所もあるし」
 そう言って彼は、袋を持ちながら少し先にある、小さな白い建物のほうを見やった。


眠れる太陽、静かの海
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