カーテンを半分くらい、窓も少し開けて、二人ベッドに横たわり、風の音を聞いた。
「俺が最初にボードを借りて海に入ったのは中2ん時で、夏休みだった。友達が『兄貴連れてくから、海行かないか』って誘ってきたんだ。鎌倉の海で、ちょうど、今日くらいの波の高さだった。人が一杯だったけど、それでもなんとかその人に初心者向けのとこに連れてってもらって・・・。海に入る前にいろいろ覚えなくちゃいけないことがあって、砂浜の上で練習したっけ。で、やっと海に入らしてもらっても、テイクオフっていって、ボードの上に立ち上がって波に乗るってのがなかなかできないんだ。恐怖心とか、タイミングが悪かったりとかでさ」
「なんとなく分かるよ。波って、動いてるもんね」
 僕は彼に寄り添い、彼の体温を感じながら言った。
「そう、波に対して後ろ向きになってるから、タイミング合わせんのが難しいんだ。でも、初めて立てた時は、すげー嬉しかった。スーって、波の上ボードが滑ってさ。そんな何秒も立ってなかったとは思うけど、気持ち良くてさ、『楽しい!』って思えた」
 この時の光樹の表情は中学生そのままって感じで、瞳をキラキラ輝かせていた。横顔が、とてもきれいだった。

「で、テイクオフまでもそうだけど、それから教わったいろんな技も、一日じゃマスターできないから、度々その人に海に連れてってもらった。できないと悔しくて、また海に行くって感じで、実家の横浜から鎌倉だのこの辺だの、一人でも通いつづけて、どんどん夢中になっていった」
「へえ、横浜住んでたんだ。でも結構長いよね、6年もやってるんでしょ。コンテストなんか、出たことあるの?」
「ローカル――地元開催のやつなら何回か出たけど、サーファーなんて、俺より上手い奴ゴロゴロいくらでもいるからさ、そんなに上のほうには、いったことないよ。そういう大会出るためにやってる人一杯いるけど、俺には性(しょう)が合わなかった。自分の好きなように滑るほうが、合ってるみたいなんだ。今でも、ギャラリーとして見に行くのは好きだけどね。でかい波でのチューブライディングとか、プロの人のすごいのが見られるしさ」
「それ、どういうの?」
「波って、崩れる時クルッて筒みたいに巻いてるだろ? そん中を、ダーッて駆け抜けるんだ、一気に。出口から抜け出た時、これがまた最高らしいんだ。俺はまだ失敗してばっかだけど。湘南より、もっとでかい波の立つとこ行ったりしてさ」

「ふうん、なんか、聞いてるだけでワクワクしてきちゃったな。・・・光樹がサーフィンしてるとこ、見たいな。とりあえず今度、写真でも見せてよ」
 僕は上体を起こして、彼の顔を見ながら言った。
「え、恥ずかしいな。波に乗ってる時のはあんまりないし・・・。ただボード持って立ってるだけのでもいい?」
「うん。ぜひ見たい。何枚か、持ってきてね」
「分かった」
 光樹は僕の頭を左腕で抱き、指先に髪の毛をクルクルと巻き付けながら、遊んだ。僕はくすぐったい気持ちで彼に身を寄せながら目を閉じて、彼が波の上をさっそうと滑る姿を思い浮かべた。
 窓を通して、海風が潮の香りを運んでくる。心地良い波の音も聞こえる気がした。

「・・・ああ、なんか、幸せだな」
 彼が耳元で言った。
「僕も・・・」
「俺、好きな子に波の話する時と、その子が何か食べてる姿見るの、好きなんだ。さっきも店での、君がハンバーガーほおばる姿、可愛かった。大きな口開けてさ」
「やだな、そんなこと考えてたの? 僕が食べるの見ながら・・・」
「うん」
 ふふ、と彼は笑って、僕の頭をさらに抱き寄せ、自分の頬に付けた。

 でも、ふとサイド・テーブルの上に置いた腕時計を手に取ると、表情を変えた。
「あ、もうこんな時間か。ちょっと、ごめん」
 僕から離れ、ベッドから降り、下に脱ぎ捨ててあったシャツの袖に腕を通し始めた。別れの時間が訪れたのだと分かったけれど、僕はまだ彼といたかった。せめて日が暮れるまで・・・。
「何? もう帰っちゃうの?」
「そうじゃないけど、ちょっと用が・・・」
 その用っていうのを聞こうと思ったけど、立ち入りすぎかなと思い直して、やめた。けど彼は僕の何かい言いたげな表情を読み取ったのか、こう言った。

「あのさ、実はこれからやっぱり波乗りに行こうかと思ってるんだ。夕方から、風向き変わるらしくって・・・。波も、今までの時間よりはいいのが立つって情報があってさ。週に1回は波乗りしなくちゃ、体がなまるっていうか・・・。鎌倉に、まだ仲間が集まってるはずだから・・・」
 僕は服を着終わった彼を、何も言わずに見つめた。ここで文句を言っていいものかどうか、分からなかったから。
「ごめんよ、ほんとにごめん。サーファーって、波情報で動くもんだと思ってよ。今日最初に君にこのこと言うと、余計なこと考えさせちゃうから、よしといたんだ」
「そう・・・」
 僕は力なく言った。
「・・・分かった」
 ゆっくりと動いてベッドをきしませ、仕方なく服に手を伸ばした。


 ホテルを出ると、僕は思い付いて財布を取り出した。
「僕、今の半分出すよ。この間だって、光樹に全部出させちゃったし・・・」
 が、光樹はすぐに、お札を取り出そうとしている僕の手を制した。
「いいよ、そんなの。そういうもんじゃないだろ? ・・・それとも、今まで付き合ってた男が君にそうさせてたの?」
 どきりとした。まともにデートってものをしたことがない僕は、なんでも割り勘だと思っていたのだ。
「ん、うん・・・まあ・・・」
「そいつ、変わってるね」
「そう・・・?」
 駅に向かって歩き出し、しばらくして、光樹がまた不安げな声で言った。
「ねえ、今日ほんとにごめんよ、夜まで一緒にいられなくて・・・。俺の勝手な理由で・・・。怒ったかな?」
「ううん。今日光樹の話聞いたりして、海が好きなの分かったから・・・。サーフィン、がんばってね」
 この気持ちに、嘘はなかった。
「ありがとう。・・・じゃさ、梅雨が完全に明けて夏休みになったら、一緒に海に行こうか。この辺じゃなくてさ。だめ? 俺、調子良すぎ?」
「ううん。嬉しい。行けると、いいね・・・」

 電車のホームで別れる時、光樹は周りも気にせず、ほんの1、2秒くらいだけど、僕の右手を握った。でも今度は、僕も握り返した。
「先の予定まだ分かんないから、そっちから電話くれるかい? 言っといた時間にさ」
 そしてお互いに別れの挨拶を交わすと、僕を乗せた電車は走り出した。
 晴れた日には窓から富士山が見えるのだが、今日はその姿を厚い雲や空気の層が邪魔しているので、臨むことはできなかった。
 日曜の夕方の車内は、混雑していた。同じ駅から乗ってきたのか分からないが、磯遊び帰りらしい親子連れもいて、母親が幼稚園くらいの女の子を膝に乗せ、父親としゃべっていた。女の子は疲れたのか、眠っている。父親はバケツを持って、その子の兄らしき小学1、2年生くらいの男の子の手をしっかりと掴んでいた。吊り革を握っていないので、電車が大きく揺れるとふらついた。

 サーファーの男の子もいた。ボードケースを抱えて、ドア付近に立って、二人組でしゃべっている。僕と同じ高校生くらいの年恰好だが、一人は耳にピアスをしていた。いくつ目かの駅で人がたくさん降りて車内が少しすくと、二人はおもむろにそのまま床に座り込んだ。すいたといっても席が空(あ)いたわけではないからか。ホーム側のドアではないから、邪魔にはならないとでも思ったのか。光樹もこんなふうに・・・と思って見ていたのに、彼らのこの行為で一気に興ざめがした。立っていられないほど疲れたのだろうか。僕はあきれて目を背け、外の景色を見ることにした。
 初めは彼らと反対側の(つまりホーム側)、彼らより一つ後ろのドア横に、進行方向に向かって立っていたのだが、やがてやっとそばの席が空いたので、手すりを回って腰を下ろした。

 景色を見るのにも飽きると、目を閉じた。光樹はピアスなんてしてないし、彼と彼らとは違う種類のサーファーだと信じたい。あいつらはきっと、海でもマナーが悪いんだ。大きな声で話してるし、ちょっと聞くと、言葉遣いも悪いもの。周りの乗客も、目を閉じる前は皆迷惑そうな顔をしてるのを見たもの。こんなことを考えていたが、電車の揺れが気持ち良くて、いつの間にか眠りかけていた。降りる駅の手前で、車内放送にはっと目を覚ました。

 帰り道、今日の光樹の言葉や仕種、ホテルでのことなどを、思い返していた。サーフィンの話も聞けたし、あっちのほうだって、明らかに初めての時より夢中だった。今日のことで、僕が捨てられるんじゃないかって不安も予感も、はずれってことが分かった。あの人も僕を愛してくれて・・・るの、だろうか。今、思い出した。彼には、半同棲の相手がいるってことを。僕はあくまでも”2号”だってことを。その途端、僕の心からは浮かれ気分が消えた。海に行こうって言ってくれたけど、社交辞令なのか本気で言ってくれたのかは、分からないんだ。
 でも、彼に自分の本当のことをほとんど話していない僕が、これ以上彼に何かを求めるのは、虫のいい話かもしれない。今は、彼と出逢えたことだけでも幸せだと思わなくちゃ・・・。


眠れる太陽、静かの海
3-3