ある日、一日の授業を終えて下駄箱を開けると、一枚のメモが靴の上に載っていた。とっさに沢本の顔が浮かんだ。他の下校生徒の目を逃れるため、近くの階段の、踊り場のスペースに小走りで入り込んだ。開いてみると、
『今夜7時 Y駅から地図に記した道筋を辿ったところにあるTEL BOXにて待つ。来なかったらどうなるか分かっているだろう。 S』
 とあった。『S』ってのは明らかに沢本だ。『来なかったら・・・』という威し方で分かる。
 もちろん僕は行きたくない。でも行かなかったら、今の僕の愛原さんへの純粋な片想いは壊される。あのどこまでも卑怯な奴のことだから、それだけじゃ済まないかもしれない。

 ああ、誰に助けを求めたらいいんだ!? 勇気を出して学校に訴えたとしても、その時は親にも僕のリビドーを知られてしまうだろう。無理矢理犯されたことにすればまだましかもしれない。でも何より恐ろしいのは、愛原さんに知られる上に、彼が沢本にどうにかされてしまうことだ。奴が学校から一時的にいなくなったとしても、いつかまた彼の前に現れるかもしれないのだ。
 周りの人たちにだってもちろん、知られたくない。学校が僕の名前を隠すかもしれないけど、生徒はすぐに感付いてしまうだろう。特にサッカー部の生徒は。だってあの日、最後までロッカールームにいたのは僕しかいないんだもの。秋川が真っ先に気付くさ。親だって、あの日僕がひどく帰りが遅かったのを覚えているだろう。
 沢本とのことに僕の同意があったにせよなかったにせよ、愛原さんにだけは知られたくないし彼を守りたい。彼のために僕が奴と寝たなんてこと彼が知ったら、心が傷付いちゃうじゃないか。
 告白する時には、何も汚されていない、きれいなままの僕を見てほしいんだ。

 誰にも助けを求められない。それは分かっているのに、練習の間中、僕はずっと愛原さんにまなざしを送りながら「助けて」って心の中で訴えていた。沢本の奴は、この部活の後に待っている、官能の喜びを想像してにやりとするような失態は少しもせず、何食わぬ顔、いつもと同じ厳しい表情で部員たちに怒鳴り散らしていた。


 学校の最寄駅から三つ目のY駅が、沢本の住んでいるアパートに一番近い。奴は駅から5分ほど歩いたところにある、私鉄の高架橋そばの電話ボックスを指定してきたのだ。僕は一度家に帰るのは嫌な気がして、部活の後繁華街をうろついた。ゲームセンターに入ったり、デパートの中にある本屋、CDショップ、洋服のショップなどを何も買うこともなく見て回り、時間を潰した。その間、時間は体にまといつくほどゆっくりと流れるような気がした。まるで刑の執行を待つ、囚人のような気持ちだった。それから電車に乗り、下手に書かれた地図の道筋を辿って、高架橋の下まで来た。10メートルほど先に、若い男を収めた電話ボックスが見えた。男は電話をかけている(ふりをしている?)。僕の近付く気配で振り向き、受話器を静かに置いた。

 嫌々ながら、並んで奴のアパートへ向かって歩いていると、急に沢本は立ち止まった。
「何か飲み物でも買っていくか」
 左前方に見えるコンビニの明りを見据えながら言った。僕は一緒に入りたくなかったのに、無理に背中を押されて、渋々ドアをくぐった。自動ドアではなかった。沢本はさっそうと歩き、大きく店内を見回しながら飲料コーナーへ向かった。客は男子高校生の3人組が雑誌を読み耽っているのと、夕食を選んでいる一人暮らし風の若い男や女などが、まばらにいた。
「皆さん! 私はこれからこの坊やと”いいこと”をしちゃうんですよ。私の恋人をもっとよく見て下さい!」
 とでも言わんばかりに、沢本はわざと店内を大回りし、飲料が並んでいる冷蔵庫の前に立った。アルコールのコーナーを眺めていたが、そこからは何も取り出さずに、お茶のコーナーへ行って、缶入りウーロン茶を二つ大袈裟な仕種で取り出すと、カゴに入れた。そしてやはり大袈裟につまみを選び、大股にレジへ行き、大袈裟に財布をポケットから取り出して代金を払った。

 沢本のアパートは2階建てで、比較的新しい印象だった。壁の白さも清潔なものだった。教師なんて給料安いから、もっとぼろいものを想像していたのだが。平教員と違って監督なんかやってるから、他の教師よりは給料がいいのだろうか。
 奴に促されて部屋のほうまで行き、ドアが開けられた。部屋の中も、意外にきれいに片付いていた。独身男の部屋なんて、さぞ汚いだろうと思っていたのに。きっと僕を呼ぶために今日だけ片付けといたんだろう。沢本の後について入ってから、僕は無意識のうちにベッドの場所を目で探してしまった。あった。リビングの隣りに、引き戸の開け放たれたもう一つの部屋があって、その左奥の窓の横に、枕を窓側にくっつけて脚の来るほうをこちら側に向けて置いてあった。シーツもかけ毛布も、シワ一つないくらい丁寧に敷かれていた。部屋の片付き具合といい、僕は反吐(へど)が出そうになった。

「ま、座れよ」
 いやらしく僕の肩に触れてから、沢本はコンビニの袋に手を入れた。小さな白いテーブルの上に、買ってきたウーロン茶を置くのかと思っていたら、一緒に買ったつまみだけを置いて、冷蔵庫からジンらしい瓶とペットボトルのコーラとを取り出し、ウーロン茶は中へ入れてしまった。じゃあさっきコンビニへわざわざ入ったのは、やっぱり僕を見せびらかすためだったのか! お茶とつまみなんて、組み合わせが変だと思ったんだ。どこまでふざけた奴なんだ!?
 不機嫌な顔でテーブルの横に座っている僕を見て、奴は言った。
「今日は朝まで特訓だ。これで元気になるぜ」
 ジンとコーラをドンと置いて、座った。
 朝までだと!? 誰が泊まるか! 我慢の一回だけで僕はすぐに帰る!!
「だめです、泊まるなんて。第一、親になんて言えばいいんです?」
「お前から電話しな。『テスト前だから友達のところで徹夜で勉強する』ってな。いざとなりゃ、俺が友達のふりをしてやる」
「嫌です。すぐに帰ります、僕は・・・」

「いいのか。愛原がどうなっても。それとも、お前が嫌々がならも俺に感じて、声を上げたこと奴に言ってやろうか? ・・・忘れないぜ、あの可愛い叫び声をな」
 僕は恥ずかしさと怒りとで真っ赤になった。膝の上で拳を握り締めた。
「それだけじゃない。お前の家に怪文書を送ってもいい。『僕は柊に好かれて、学校で付きまとわれて困っています。少年A』とかいってな。これでお前は親に・・・」
 バシャッ! ペットボトルから飛び出したコーラは、沢本の目に命中した。
「な、何をする!? め、目が・・・」
 台所に駆け込み、必死で目を洗っている。僕はそのすきに逃げようと腰を浮かしかけたが、
「いいのかと言ってるんだ! 俺は本当に愛原を犯(や)るぞ!!」
 という言葉に、再び座らざるを得なかった。

 目を洗い終えた奴は言った。
「それを混ぜて飲めるように作れ。二人分だ」
 グラスを二つ持ってきて、僕の斜め前に座った。僕は震える手で言われた通りジンとコーラを混ぜて飲み物を作り、一つを沢本の前に置いた。
 奴はグラスを傾けながら、僕の分を取って差し出した。受け取ったグラスの中のアルコールを、僕は一気に飲み干した。
「さ、もっと飲(や)れ」
 沢本は次々と自分のと僕のグラスとに、ジンとコーラを注いでいった。
 つまみが終わると、沢本は冷凍庫からチキン・ライスなどの袋をいくつか出し、電子レンジで温め、テーブルに並べた。それで僕は、夕食がまだだったことに気付いた。
「朝まで長いからな。すきっ腹ってわけにいかんだろう」
 食事をする僕らに、会話はなかった。場しのぎに、沢本はテレビを点けた。

 酔いが回るのは早かった。僕はやがてうとうととし、眠りに入ってしまった。このままじゃ、初めて光樹に抱かれた時みたいになっちゃうじゃないか・・・。
 目が覚めた時、僕はベッドの上に寝かされていた。壁掛け時計を見ると、30分しか経っていない。起き上がってみても、シーツは乱されていなかった。
「起きたか。さあ、家に電話しろ」
 沢本は電話機の前で、受話器を取って立っていた。僕は寝ぼけ眼(まなこ)で立ち上がり、それを受け取って家の番号を押した。
 母は、初めのうちは心配そうに「大丈夫なの?」などと言っていたが、最終的には僕の言葉を信じたようだ。受話器を力なく置いてから、僕は手をなかなか離さなかった。離した途端に、悪夢の一夜が始まるからだ。しかし沢本が乱暴に僕の手を受話器から離させてしまった。
「お前の親、過保護じゃないんだな。好都合だ」
 そのまま手を引っ張って、僕をバスルームへ連れていった。
「早く上がれよ」
 シャッ、とカーテンを閉めてリビングへ戻っていった。僕はしばらく立ち尽くし、そして諦めたように、壁を背中でずりながら、床に向かって崩れ落ちた。  


眠れる太陽、静かの海
4-1