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あいつから逃れたい。なんとかして、あいつから逃れたい。沢本がまた明日から平然とした顔で学校に来るなんて、会わなくちゃいけないなんて、耐えられない!!
日曜の朝、僕はふらふらと、Y駅に向かって歩いていた。
沢本の家を出る時に聞いた、背後からの言葉が耳に残って響く。
「明日、ちゃんと練習には出てこいよ。いいな」
僕は何も言わずに廊下へと飛び出し、2階から地上に続く階段を駆け降りた。何度も脚を滑らせそうになった。・・・
ずっと下を向いたまま歩いていたが、ふと空を見上げると、梅雨空が今にも泣き出しそうだった。――と思う間に、冷たい雨が僕の顔に落ちてきた。一つ、二つ、間隔はまばらで、濡れるほどではない。小雨だ。
やがて、昨日の夜、沢本が待ち合わせの場所に指定してきた、あの電話ボックスが見えてきた。僕はできるだけ見ないようにしながら、その前を通り過ぎた。
雨は降り出したばかりだし小降りなので、すれ違うのは傘を持っていない人や、持っていても差していない人がほとんどだった。腕時計を見ると11時過ぎで、これから遊びに行くだろう人々が目立ってきた。高架橋の下まで来ると、僕は真ん中辺りで脚を止めた。頭上には、いつも利用している線と交差している、もう一つの私鉄の線路が垂直に渡っている。僕の右側には、歩道と車道とが段差で分けられた道路が、横たわっている。僕は歩道の左端に寄り、背をもたせかけた。左に首を回すと、四角く切り取られたガラスのない窓の外には、印象派の絵画のように輪郭の曖昧な風景が広がっていた。軽トラックや乗用車が、時間を置いて僕の前を過ぎていく。
そこへ、20代前半くらいの、白い七分袖のブラウスに薄紫色のスカート姿の女が、持っていた水色の折り畳み傘を開こうとしながら、その四角い空間に現れた。女は、他の人たちとは違い、駅のある方向から来て、高架橋の下に曲がってきた。向かい側の歩道を、サンダルの音を響かせながら歩いていく。傘が開かれた瞬間女が顔を上げ、何気なくこっちを見た。少し茶色い髪のショート・カットで、橋と傘の陰になっていても、肌の白さが目立った。服の色に合わせた、淡い化粧をしていた。――整った顔をしていた。その顔が、僕と目が合った途端、何故か恥ずかしそうに伏せられた。そのまま、女は水色の傘を揺らして、橋の外へと出ていった。
一瞬意味を量りかねたが、やがてはっとした。あの女と僕とが、同じ立場かもしれないということを。彼女は、今から家に帰るところなのだ。推測に過ぎないかもしれないのだけれど、先ほどの恥ずかしそうな顔を脳裡に蘇らせると、真実味を帯びた。彼女のほうは僕をどう思ったのか、分からないけれど。
その時、僕は自分にも彼女に対しても、嫌悪感を覚えた。ただ、僕と彼女との違いは、好きな男に抱かれていたか否かだ。その場にいるのがいたたまれなくなって、壁から身を離して、再び歩き出した。橋の外の雨は、制服の半袖シャツに、ゆっくりとだが小さな水玉模様を作るまでになっていた。折り畳み傘がカバンの中に入っているが、差す気にはならなかった。
――女だったら、僕が女だったら、こんなこと、我慢できるだろうか。教師に乱暴されて、その後も威しで関係を続けさせられても、誰にも黙っているだろうか。いや、思い切って話すだろう、特に母親には。体に、望まない異変が現れた時には。そうだ、女は自分の中に新たな存在を宿してしまう。だから親に話して、嫌な奴との関係を断ち切ることができる。たとえ自分から打ち明けなくても、体が――。
だが男は? 僕は? 何も起きない。一日に何度やられても、異変なんて現れる心配はない。このまま誰にも話さなければ、僕はずっと奴のモルモットなんだ。
駅前に並んだ電話ボックスを見て、僕は家に・・・母に電話をしようかとふと思ったが、やめた。今声を出したら、掠れた力のないものしか出てこないだろうから。あの温かい母の声を聞いたら、泣き出してしまうかもしれないから。
座って電車に揺られながら、僕は雨粒が描く、細い斜めの線をぼんやりと見ていた。日曜の昼前だが、小雨が降っていて肌寒い日なので、出かける人は少ないらしく、そう混んではいない。
世間話やこれからの予定を話し合う、悩みのない乗客の話し声が、僕の胸を刺した。膝の上で両手を組んだ。彼らは、僕の苦しみを知らない。世界は、僕の思いとは関係なく、滞りなく存在している。
どうして僕があいつのいいなりになっているか・・・? あの人を、守りたいから。守りたいから。
愛原さん・・・あの人を追って、僕は今の学校を選んだのだ。
眠れる太陽、静かの海
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