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僕はずっと、ずっと、あの人だけを想ってきた。
それは、中学2年の秋だった。あの時、来年の受験のためにサッカーの盛んな高校を選ぼうと、秋川や他のサッカー部の仲間と、いろんな学校の試合を見に行っていた。そんな中に偶然――いや、必然だったかもしれない――見つけたのが、彼、愛原敬(たかし)だった。
その試合は、高校選手権県大会の中の一試合だった。F高校と、今僕のいるK高校との戦い。会場に近付くにつれ、両校の応援合戦が聞こえてきた。管楽器の音が、高らかに空に響いている。チケットを買って場内に入ると、僕らはメインスタンドに座り、どちらを応援するでもなく、試合の始まるのを待っていた。隣りには、秋川がいる。
両校の選手が出てきた。僕らはスタンドから、選手たちの背番号を見せた後ろ姿を眺めた。K高校の中に、GK以外で、一際(ひときわ)背の高い選手がいた。場内アナウンスが、「9番FW、愛原敬」と彼を紹介した。彼がこちらに横顔を見せた時、その精悍さに、僕は少しはっとした。自分の中に、何か予感のようなものが起きた気がしたが、その感情の名前がなんであるかは分からなかった。
試合は立ち上がりからF高校のペースで、K高校は押され気味だった。先制はF高。K高も相手陣内がんばるが、FWの9番、愛原選手が相手のマークにあっていたり味方がパスミスをしたりして、なかなか彼にボールが渡らない。2トップのもう一人のFW選手も同様だ。
だが前半終了10分前に、流れの変わる出来事が起こった。中盤で、F高のボールを奪ったK高のMFから、パス回しがうまく運び、右サイドにいて、相手のしつこいマークをようやく振り払った愛原さんにボールが渡ったのだ。彼はF高ゴール前にセンタリングを上げ、好位置にいた別のMFがそれを胸のワントラップで受け、ついにゴールしたのだ。同点だ。試合は振り出しに戻った。
そして後半へ。どちらも譲らず、均衡が続いたが、情勢的には前半と違い、1点目で勢いづいたK高が何度もシュートチャンスを得るようになった。
「おい、あの人1年だって。でかいよな」
ハーフタイムに、同じメインスタンドにいたK高のサッカー部員から聞いたらしく、隣りの秋川が話しかけてきた。聞けば、180センチ近くあるそうだ。
本来の力を出せるようになったせいか、K高の選手たちは生き生きとし始めた。しかし相手のディフェンスも必死で、逆転ゴールを許すまいと、躍起になっている。
そんな中、F高の選手が反則を取られるシーンがあった。シュートレンジ(シュートを狙える位置)に入ろうとする愛原さんにタックルをかけ、それが脚にいってしまったのだ。僕は愛原さんがけがをしたのではないかと思い、どきりとした。だが倒された彼は少し痛そうな顔をしたが、すぐに起き上がって「大丈夫」と審判や味方にアピールした。それでK高はフリーキックを得たが、蹴る役に回ったMF(前半に1点目を取った選手)が、勢い余ってゴールバーの上に蹴り上げてしまい、ゴールはならなかった。
1対1のまま、80分(高校の公式試合は前後半合わせて80分)が過ぎようとしていた。あとは、ロスタイムを残すのみだ。誰もが延長戦を予想したその時、F高が失敗したコーナーキックから、こぼれ球を拾った相手選手のボールを奪い、ドリブルに入った選手がいた。愛原さんだった。
彼はその後もう一人のFWにパスして駆け出し、DFを二人かわし再びゴール前でパスを受け取り、迷わずゴール左隅を狙ってシュートを放った。ボールはGKの手をかすめ、そのままネットに突き刺さった――ゴールを告げる審判の、高い笛の音(ね)。
その歓声はすさまじかった。メインスタンドにいたK高の応援団――試合には出られなかったサッカー部の部員たち、他の生徒たち、父兄――が、一斉に声を出し、会場に大きなどよめきが起こった。声の波が、僕を包んだ。
直後に試合終了の笛。愛原さんのシュートが、チームを勝利に導いたのだ。
その時僕は、震えていた。自分の中に、信じられないことが起こっていたから。
それは、生まれて初めて経験した、一目惚れというものだった。
それまで僕は、一目惚れというものが存在することは知っていたけれど、まさか自分が経験するなんて、思ってもみなかった。恋っていうものは、その人といつも一緒にいて、幾分かの時間をかけて、段々好きな気持ちが育っていくものだと思っていた。事実、今この時まではそうだった。恋には時間が伴っていた。だが、彼だけは違った。彼のゴールする姿を見たその瞬間に、僕の全精神、全魂(たましい)は、彼にのみ集中した。胸が締め付けられた。僕にはオーラが見えてしまった、彼の背後に。その刹那、この地球上には、彼と僕だけしか存在しないかのような錯覚に陥った。
秋川が僕に何か声をかけたらしいが、僕には聞こえていなかった。
僕は初めから、どんなシーンでも、彼ばかりを目で追っていたことに気付いた。最初に感じた予感の正体も、今やっと分かった。
その日家に帰って、すぐには信じられなかった。一目で彼を好きになってしまったなんて。だから一晩中眠れずに布団の中で、こんなのは嘘だ、一目惚れなんて僕がするわけがない、あんなのはドラマや映画の中だけの話だって、その恋を否定し続けた。だって、あんまりいきなりすぎるんだ。一瞬で、自分の魂の全てが、一人の人の虜になるなんて。
でも明け方に、ようやく僕は認めた、自分の新しい恋を。『僕は彼と出逢うために生まれてきたんじゃないか』、そう自分の心に独りごちた。
その後、K高校は予選の準決勝まで進んだが、それは破れてしまった。
それからというもの、「あの人に逢いたい。逢って一緒にサッカーをやりたい」との一心だけで、このK高校目指して勉強とサッカーの練習に明け暮れた。両親への説明は、「選手権予選で、準決勝まで進んだところだから」だけで十分だった。
合格発表の日は、あの日愛原さんがゴールを決めた時と、同じくらいの嬉しさで一杯だった。「合格した」という喜びよりも、「あの人と一緒にサッカーができる」っていう喜びのほうが大きかった。僕はその場で泣いた。一緒に発表を見に来て横にいた秋川は、僕が泣いた本当の理由を知らないまま、「やったな!」と笑顔で叫んで、互いの合格を祝って、僕の肩を叩いた。
そして、僕は再びあの人と出逢った。
念願のサッカー部に入部し、最初の日、自己紹介をした。そこで、僕は初めて彼に存在を認めてもらったのだ。
監督は・・・そう、沢本。思えば、僕が愛原さんに恋をしたあの会場に、沢本もいたのだ。僕のいたメインスタンドの、その真下に。その時は、互いの存在を知ることもなかった。それが今、どうしてこんなことになってしまったのだろう。何かが、違う。何かが、狂っている。僕はどこで、この迷い道に入り込んでしまったんだろう。
僕があの人を想いながら過ごした2年間は、今、壊れようとしている。
でも、誰かに話したとしても、均衡は壊れる。僕と沢本以外の世界も時間も、何事もなく行き過ぎているのだから。サッカー部も、クラスも、学校も、僕の家族も、この街も、均衡は保たれている。この均衡を壊す勇気が、僕にはない。怖いんだ。とても怖い。
僕さえ黙っていれば、我慢していれば、愛原さんも、周りの環境も、守ることができる。それは分かっているけれど、今のままでは辛すぎる。勇気が欲しい。誰かに話してしまいたい。僕をこの場から救い出してくれる誰かに。
眠れる太陽、静かの海
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