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家に帰ると、母が出迎えた。ドアが開くまで、怒られるのではないかと、僕は内心びくびくしていた。初めての朝帰りになってしまったから・・・。だが、ドアから覗いた母の顔を見ると、心配そうなのと、少し呆れたようなのと、合わさったような表情をしてみせていた。
「お帰りなさい。帰る前に、ひと言電話しなさいね」
「ご、ごめんなさい・・・」
「雨降ってたでしょう。・・・折り畳みは持っていってたのね。ごはんは? 朝とお昼」
母は僕が手に持っていた傘に目をやってから、また顔を上げた。
「さっき、外で済ませてきた。起きるの、遅かったから・・・」
僕は、靴を脱ぎながら言った。
沢本が作ったものになんか、手を付けなかった。海のそばにあるファーストフード店で、ハンバーガーのセットを頼んで僕は食べた。
靴を脱ぎ終え、顔を上げると、母が目の前に手を差し出した。「ん?」って顔を僕がすると、
「出しなさい、練習着。汚れてるんでしょ?」
と言った。
「あ、うん」
と思い出したように、僕は肩にかけていたスポーツ・バッグを母に手渡した。
「あの、父さんは?」
「出かけてるわ。本を買いに行くって言ってた。昨日からあなたいないから、心配してたわよ」
「そう・・・」
父が帰ってきたら、彼にも同じような説明をしなければならない。僕は下を俯いた。
「あ、清ちゃん」
バッグを抱えて洗濯機のある洗面所へ向かおうとしていた母は、脚を止めて振り返った。僕は「このまま、何も聞かないでほしい」と願いながら2階へ上がりかけていたのだが、その声に階段の2段目で止まってしまった。
「結局、誰のおうちにお世話になったの? 昨日はただ『友達』としか言わなかったけど・・・。ちゃんと家の人にお礼言ったの?」
「うん、言ったよ。学校の先輩で、母さんは知らない人。数学教えてくれるからって、泊めてもらったんだ」
ごまかす相手としてまず浮かんだのは秋川の顔だったが、彼だと言ってしまうと、後で母から秋川の家に電話などかけられては、嘘がばれてしまう。彼の親に、お礼といってかけるかもしれないから・・・。それに、僕が学校で秋川と会った時にも、口裏を合わせるための理由に困ってしまう。彼には本当のことなど、今はとても話せない。
「サッカー部の人なの?」
それでも、母は疑い深げだ。眉をひそめて聞く。
「うん」
「こういうこと、これからもちょくちょくあるの?」
「そう・・・かもしれない。なんだよ、母さん心配しすぎだよ。もう小学生でもないし女の子でもないんだから、僕を信じてよ」
「そう・・・。分かったわ」
母はやっと諦めたように頷いて、洗面所へと歩いていった。その後ろ姿は、少し寂しそうだった。
罪の意識を重く感じながら、僕は階段を足早に上がってゆく。
一人息子の初めての外泊に、母親が心配するのも無理はない。
父は僕が子供の頃から仕事でいつも忙しく、あまり親子顔を合わせる機会がなかっただけに、僕と母とは仲が良かった。いつでも、僕は母と一緒だった。二人だけで、旅行をしたこともある。反抗期は少し前(中学まで)に終えていて、その時は母を困らせてしまうこともあった。でもその時以外は「友達親子」みたいな感じだと、昔から近所の人によく言われた。
その母を、僕は裏切り始めている。嘘ばかりついている。でも本当のことを言えば母をもっと悲しませてしまうことも、僕は知っている。だから、僕は嘘をつくしかない。
自分の部屋へ着いた時、前にここへいたのが遥か昔だったような気がした。悪魔のいる棲家から逃れ、僕はやっと自分の落ち着く場所へ辿り着いたのだ。
疲れ果てていた体を休めようと、ベッドへ腰を落とした。――すぐに痛みを感じて立ち上がった。そして、ゆっくりと気を付けながら今度は肩を下にして身を横たえた。枕に横顔を沈めた。
そうしている間も、あいつに陵辱された跡が疼く。疼く。疼く・・・。
涙は自然に溢れてきた。
あいつの家を出てから、ずっと抑えてきたもの・・・。
その熱いものは、横を向いているので鼻梁を横断し、枕へと吸い込まれた。
後から、後から、止め処なく流れ続ける。
僕は拳を握り締めた。そのまま、上になっている左手でベッドのシーツを叩きつけた。その部分が勢いよくへこんだ。それを数度、繰り返した。
僕はこんな体にされるために、生まれたんじゃない。
あんな奴に抱かれるために、今まで生きてきたんじゃない。
なのに・・・!!
自分の臆病さと不甲斐なさ、あいつのいやらしさと卑怯さに、また怒りが込み上げてきた。
嫌だ! 嫌だ!
好きな人じゃなきゃ嫌だ!
好きな人とキスをして、抱き合って、僕は愛を確かめたかった。
初恋をした小さな頃から、うっすらとその願いは生まれ、やがて自分の傾向が分かるにつれて、性的な知識が身に着くにつれて、それは僕の心の中で大きさを増していった。いつか僕も全てを好きな人に捧げるものだと、思ってた。
最初の相手が、せめて光樹ならばよかった。
でも僕が沢本に襲われることがなかったら、彼と出逢うこともなかった。
運命の、悪戯・・・。
その言葉は、今とても陳腐なものに聞こえる。
――夕方、母に夕飯だと呼ばれるまで、僕は泣き続けながら眠りに落ちたことにも気付かなかった。
「昨日は、先輩の家へ行ってたんだって?」
帰ってきた父が、食卓で言った。
父、母、僕の家族全員が揃った、夕食の時間。制服をようやく脱ぎ、僕は部屋着に着替えていた。
「うん・・・」
僕は力なく頷いた。
「本当だな。あんまり母さんに心配かけるなよ」
どちらかといえばやせている印象の父は、ご飯の入った茶碗を左手に、箸を右手に持ちながら溜息をついた。
「年頃になったのは分かるけど、連絡だけはしてね。遅くなる時も・・・」
父の横に座った母が言う。『年頃』という言葉に性的な意味を感じてどきりとしたが、平静を装って僕は口を開いた。
「でも、サッカー部の練習で遅くなる時もあるんだよ。その時も、言わなくちゃだめ?」
「できればね。6時とか7時とかならまだいいけど、特に遅くなる時は」
「夕飯の支度だって、あるしな」
今度は父。
「あら、それならあなたも同じよ。仕事や学校で遅い時は電話。二人共、守ってね」
母は横を向いて矛先を父にも向けた。
「はいはい、分かってるよ」
まいったな、という顔をして、父は返事をした。
「清ちゃんは?」
「はい」
それで、その時はことなきを得た。
夕食が終わってしばらくすると、僕は風呂へ入った。
風呂場には、ひざのあたりまで映る鏡が据え付けてある。シャワーのお湯で体が幾分温まると、栓を止めた。シャンプーやリンスなどが置いてある台の1段上に石鹸があるので、僕はそれに手を伸ばした。その時、鏡に映った、かがんだ自分の腰のあたりが目に止まった。石鹸に伸びかけていた手を下ろし、――そのままお尻にそっと触れてみた。あの部分を、見てみたくなったから。
少し腰を曲げたまま後ろを向いて、あいつにむさぼられたその部分を、鏡に映して見てみた。僕はすぐに目を背けた。――そこは赤くなっていた。
昨日の夜、あいつは初めのうちこそ潤してから入れていたが、朝に向かうにつれて、そんなことも構わなくなった。自分がやりたい分だけ僕の中に入って、出したいだけ出した。僕がどれだけ嫌がっても、その声がまるで引き金にでもなっているかのように・・・。赤いものが流れなかったのが、唯一ましなことだった。
体をよく洗い、その部分には直接触れないようにして、その代わりシャワーでよく流した。その時、一時収まっていた痛みがまた蘇ったけれど、我慢した。
風呂から上がり、体を拭いてTシャツと短パン姿になると、僕は冷蔵庫からペットボトル入りのミネラル飲料水をコップに注いで、力なく自分の部屋へと上がった。
一口飲み、勉強机の上にコップを置いた。ベッドのへりにゆっくりと座り、観るでもなしにテレビのリモコンスイッチを入れた。トーク番組をやっていた。司会の男性タレント二人組が、若い女性タレントを迎えて脳天気なトークを繰り広げていた。どうやら、恋愛話らしい。そこから聞こえてくる会場の観客の笑い声が、まるで僕を笑っているような気がして、チャンネルを替えた。今度はニュース番組だ。それを流したまま、僕は机の上を見た。目に止まったのは、1週間分の時間割表。自分で作った・・・。ペンで、分かり易く色分けしてある。明日は、月曜日・・・。
――明日、明日学校へ行ったら、あいつと会わなきゃいけない。あの、悪魔と・・・。
嫌だ。会いたくない。行きたくない。学校には・・・。でも、行かなければならない。
全てを守るために。僕の周りのもの全てを。今は、守るしかないのだ。
眠れる太陽、静かの海
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