重い手つきで明日いる教科書をカバンに詰め込んだ後、空の黒いスポーツ・バッグに目をやった。――学校へ行っても、部活さえ休めばあいつに会わずに済む。朝練に出ず、他の生徒と同じような時間に学校へ行けば・・・。でも、母にどうやって部活を休む理由を話そう。最初の時と同じように、また風邪をひいたと嘘をつくか・・・? だが、それも怪しまれそうな気がした。そんなことを繰り返していたら、やがて母には・・・。僕は諦め、タンスから新しい練習着を出してバッグへ入れた。シャツ、パンツ、ストッキング・・・。何故かあの日、あいつに脱がされたのと同じ順番で、それらは暗く狭い空間へと身を潜めていった。
 一度下へ降りて歯を磨き、また上がってきた。部屋の真ん中に、佇んだ。――ベッドに横になるのが怖かった。横になれば、やがて眠ってしまう。そして再び目覚めれば、明日になってしまう。それまでの時間を、僕はなんとか引き延ばしたかった。

 漫画は読む気にならないので文庫本でも読もうと本棚から1冊を取り、勉強机のスタンドを点けて椅子に座り、ページを繰り始めた。前に一度読みかけて、途中でやめてしまった推理小説だった。日本の男性作家が書いたものだ。僕はそれを、最初から読み直すことにした。――が、読んでも読んでも、ストーリーが頭に入ってこない。別のことで、頭がいっぱいだからだ。明日への不安で、いっぱいだからだ。
 それでも無理をしてページを繰っていると、部屋のドアを2回ノックする音がした。
「清太。もう寝てるか?」
 父の声だった。
「ううん。まだ。何?」
 僕はドアの外へ声をかけた。
「ちょっと・・・」
 と言いながら、父はドアを開けて部屋へ入ってきた。青色のパジャマ姿だった。少し大きめなのか、やせた体にだぶついているように見える。以前母がサイズを間違えて買ってきてしまったのを、せっかく買ってきてくれたのだからとそのまま着ているのだ。

「何? 父さん」
 僕は文庫本を閉じて、開いていたところに親指だけ残し、後ろを振り向いていた。
「今、忙しいか?」
「別に・・・。眠れないから読んでただけ」
 本当は眠りたくないから、だ。
 父はもったいつけてから、こう言った。
「・・・お前、今何か悩んでることはないか?」
「え?」
 父にこう聞かれるとは思っていなかったので、僕は緊張しながら聞いた。顔を閉じている本へと戻した。視線はそこのあたりを泳ぐ。
「お前、昨日は本当に先輩の家へ泊まったんだな?」
 改めて確かめるように、父は聞いてきた。
「そうだよ」
 僕は低い声で答えた。本の間に挟んでいた指を抜き、回転する椅子ごと体を父に向けた。
「父さんも疑ってるの?」
 手を両膝に載せた。

「だってほら、初めてじゃないか。こんなこと・・・。一人息子だし、心配するさ。その、彼女でもできたのかと思ったんだ」
 父は頭を掻いた。本当は面と向かってこういう話をするのは苦手なくせに、と僕は思った。やっと笑みを零した。
「違うってば。ほんとだよ。彼女なんていないよ。今は部活が忙しくて、それどころじゃないし・・・」
「そうか。それならそれでいいんだが・・・。いや、疑って悪かった。母さんは女だし、言いにくいのかと思ってしまったんだ。今回は違ったからいいんだが、ほら、男同士だから、何か困ったことがあったら父さんに相談しなさい。それが言いたかったんだ」

「今んとこ、困ってないけど・・・。ありがとう。分かったよ」
 僕は笑顔を作って言った。別に僕は父が嫌いなわけじゃない。母に比べればまだ少し反発する気持ちが残ってはいるけれど。今も、初めは嫌だったけれど、普段はあまり思い切ったことが言えない父だから、たまにこうやって声をかけてくれるのは素直に嬉しい。それだけに、彼に真実を告げられないことに、胸が痛んだ。
「じゃ、明日も早いんだろ? あまり無理しないで、早目に寝なさい。おやすみ」
 と言って、父は背を向けてドアへと向かった。
「うん、分かった。おやすみなさい」

 そして、部屋にまた静寂が訪れた。
 僕は文庫本を本棚へ戻してスタンドの明りも消し、ベッドに横になった。部屋の明かりはまだ消していない。
 父は仕事が忙しいサラリーマンだが、決して家庭を顧みない人ではない。子供の頃から、休日には一緒にサッカーボールで遊んでくれたり、遊園地へ連れて行ってくれたりした。コンピュータ関係の仕事をしていて残業も多いので、平日の疲れがあるだろうに、家族思いな人だと思う。
 僕がどちらかといえば母寄りなのは、過ごした時間の多さが理由だ。男の子がいるどの家庭でも、だいたいうちと同じようなものだと思う。それに僕は一人っ子だから、母親と過ごす時間が兄弟のある者より多かったのだと思う。
 また結婚する時は、父のほうが母にベタ惚れだったという。今もそれは変わらないのだろう。
――そう、僕の家庭は円満だった。
 僕は一時(いっとき)暗い気持ちから解放され、笑みさえ零した。――ようやく、眠ろうという気が起きてきた。僕は部屋の明かりを消し、ベッドに戻ると横たわり、目を閉じた。

――光樹の声が聞きたい。
 そう思ったのは、目を閉じて数秒後だった。――僕はゆっくりと起き上がった。
 机のスタンドだけ点け、電話の子機を手に取った。スケジュール帳をカバンから取り出し、そこに挟んでいた彼の家の電話番号が書かれたメモを見た。――が、ふと思い直し、子機をホルダーに戻した。
 日曜の夜は彼の同棲相手がいるかもしれないから、かけてはいけないと言われていたのだ。月曜にはまた自分の家へ帰るかもしれないから、それまで待って欲しいと。今日はいるだろうか、その人は・・・。そして僕は思い当ってしまう、一つのことに。
 今光樹は、その人と抱き合っているかもしれない、ということに。彼の部屋の、ベッドの上で。
 そう思うと、また気分は沈んだ。想像しかけてしまった自分の頭を振り、スタンドの明りを消してベッドに飛び込み、毛布を肩まで被った。
 明日こそ、明日こそ彼へ電話をかけて、声を聞きたい。あの、明るい声を。
 それだけを強く願いながら、僕の長い二日間はようやく終わりを告げた。


眠れる太陽、静かの海
8-2