月曜の放課後、サッカー部の部室に部員全員が集まっていた。
 僕が最初に沢本に抱かれた、その場所に。
 僕が体を投げ出したそのテーブルの上に、部員の一人が頬杖を突いて、”監督”の話を聞いている。
 窓からは、まだ明るい太陽の日差しが差し込み、中にいる人間の顔を照らしている。
 沢本はホワイトボードに向かい、マジックを持って戦術の説明をしていた。その目はいたって真剣だ。”熱心にサッカーを生徒に教える真面目な教師”の仮面を、また被り直している。昨日のことなど、まるでなかったかのように。
 みんな、だまされている。沢本のその目に。奴の本当の姿を知っているのは、この部屋の中で僕だけなのだ。

 愛原さんも、椅子の一つに座って奴の話に耳を傾けている。そのきれいな、精悍な横顔で。
 僕もただ黙って、ホワイトボードを見つめ続けている。沢本の顔は、できるだけ見ないようにした。丸のマークを選手に見立て、四角いコートの中に矢印を何本も書いて、場面ごとの選手の動きを沢本は説明する。その矢印を描く奴の右手を、僕は何も考えずに暗い視線で追った。奴はマジックをボードの下についている溝へと置いた。
「・・・みんな分かったか? 次は実際の動きを、ビデオを観ながら考えてもらう」
 そう言い沢本は、テーブルの上に置いてあった参考のビデオテープを取り出し、ボード脇にあるモニターにセットして流し始めた。海外リーグのものらしい試合風景が、映し出される。
「これはスペインリーグのものだ。この8番のMFの動きを、よく観ておくように」
 マジックを指示棒に持ち直し、沢本は画面を棒の先で指し示した。
 
 ビデオ・・・。僕はあの忌まわしいビデオのことを思い出し、身震いした。
 沢本はあれを、どうするつもりなのだろう。僕を撮った、あのテープを・・・。また、脅しの道具の一つにでもするつもりなのだろうか。
 朝グラウンドで会った時、奴は僕に一瞥くれただけで、特に言葉は交わさなかった。朝練はストレッチと軽いジョギングだけで終わった。今日は、奴と何も関わらずに帰りたい。そう僕はビデオを観ながら願った。

 1時間ほどのミーティングは終わり、午後の練習が始まった。週明けなので、月曜日はいつもメニューが軽い。筋トレやランニング、ダッシュなどが主で、ボールはあまり使わない。
 僕の学校のグラウンドは広く、普段はサッカー部と野球部とが半分ずつ使っていた。その余りを、陸上部が使う。テニスコートやプールはまた離れた場所にある。
 先輩や学校の先生などから聞いた話によると、このK高校は元々、特に”サッカーの名門校”というわけではなかったが、ここ10年ほどの間にスポーツに力を入れ始め、数年前からはサッカー部が強くなってきていた。それまでの単なる”部活動の一環”という考えから、”強くなるためのサッカー”という指導方針に変わってきたためだ。沢本の前の監督からだ。それを、彼は受け継いでいる。3年前に監督に就任し、その1年後に愛原さんが入学してきた。その年のサッカー部は強かったと、周りの先輩たちは言っている。強豪がしのぎを削る高校選手権の県予選で、準決勝までいったのだから。去年はその時の3年生が卒業したため、特に目立った動きはなかった。今年こそ、との思いが部員の中には満ちている。世間からも注目が集まっているのだ。地元住民からは、格別温かい目で見られている。

 そんなサッカー部の日常の中で起こった事件を、みんな知らずに過ごしている。・・・

「清太」
 二人組でストレッチを行っている時、相手の秋川が声をかけた。シット・アップといって、腹と胸を押さえてもらいながらやる腹筋だ。今は僕が押さえる役をやっていた。秋川は頭の後ろを両手で支え、上体を上げ下げしている。
「なんか元気ないじゃん、今日。なんかあった?」
「そんなことないよ」
 僕は無理に笑顔を作った。
「昨日、暑くて寝付けなかったから、ちょっと寝不足なだけだよ」
「何時ごろ寝た?」
 秋川がそこまで言った時、太い声が響いた。
「そこ! 私語は慎め。ちゃんとかけ声に合わせてやれよ」
 沢本だ。手を打ちながら大きな声で回数を数えている。それで、秋川は黙った。

 秋川と僕とはそのまま組になり、次々とメニューをこなした。その間も沢本は回数を数え、生徒たちにはっぱをかけている。愛原さんも、3年生の一人と組になって、同じメニューをこなしていた。それを、少し離れた場所にいる僕はちらちらと見た。彼は気付かない。
 最後はレッグ・ランジといって、相手をおんぶしながら片脚を後ろに伸ばす運動だ。その時は僕が秋川を背負い、脚を伸ばしていた。が、元々ものを持ち上げる力はそれほど強いほうではないので、僕は回数を重ねるにつれ潰れそうになっていった。左右の脚を変える時が、ひと際辛い。愛原さんはというと、同じ動作を軽々とやってのけている。その様子を、そばで沢本が無表情に見ている。と、生徒たちの間を1周してまた僕たちのところへ来た。

「柊。相手をしっかり持ち上げてろ。それじゃ落ちてしまうぞ」
「は、はい」
 僕は秋川の腿(もも)の裏を支えている腕を動かし、持ち直した。秋川も、僕の肩に回している腕を組み直す。
「清太、ごめん。俺、重い?」
「そんなことないよ」
 そう言って、彼に見えないところで作り笑顔をした。
 沢本はそんな僕たちのそばに立って、まだ見ている。屈辱を覚え、脂汗をかきそうだった。早く去ってくれと、運動の間願い続けた。
「5、6、7、8。1、2、・・・7、8。よし。次は秋川が柊を負ぶうんだ。みんなも交代だ」
 最後の一言は声を大きくして、全体に告げた。僕は荒い息をしながら、秋川を下ろした。

 僕は秋川に負ぶさった。その時またあの部分に一瞬痛みが走ったが、すぐにやんだ。その様子を沢本や秋川に悟られはしないかと、緊張した。
「負ぶったか。それじゃいくぞ。1、2、3、4・・・」
 沢本のかけ声で、秋川は僕を背負いながら脚の運動を始めた。彼が脚を伸ばすために上体を下げる度に、彼の腕に支えられながら開いた僕の腿とあの部分とに負荷がかかるので、その度に僕の心には痛みが走るのではないかと不安がよぎった。痛みは昨日ほどではなかったが、微かにまだ残っていることが分かった。僕はその微かでも体の一部分で感じるそれに、表情を変えないよう必死で努めた。今運動をしていて辛いのは、秋川のほうなはずだから。負ぶさっているほうが眉を歪めては、不自然だ。

 沢本はそれでも、教師と監督の仮面を被り続けていた。口の端も上げず、じっと厳しい表情で見ている。でも、僕には分かる。奴が、内心はほくそえんでいることを・・・。だから今も、僕らの後ろに回ってそこから眺め直したのだ。僕はそれを視線で追った。前から見ている時も、奴は僕の開かれた下半身ばかり見ていた。
「よし。ストレッチはここまで。次はランニングだ」
 全員に言った後、沢本は秋川から下りた僕に言った。
「お前はもうちょっと、ウェイトと筋力をつけなくちゃな。秋川の負荷にしちゃまだ軽い。まあまだ1年で成長期だから、焦ることはないが」
「はい・・・」
 仮面を被った上での”監督らしい”台詞だと承知しながら、僕も生徒らしく従って答えてみせた。二人の言葉を、誰も演技だとは思わないだろう。


眠れる太陽、静かの海
9-1