「ただいま」
「お帰りなさい。今日は早いのね」
玄関口で、母は笑顔を見せた。僕は言われる前に練習着の入ったスポーツバッグを渡す。
「そうだ、テストはいつからなの? 期末テスト」
母は廊下で僕の先を歩きながら振り向いた。
「来週から」
「じゃ、今週は部活もお休みになるの? 今日はあったようだけど」
「ううん、あるよ。時間は短くなるけど。テスト期間中はさすがにないけどね」
「あら、テスト休みにはならないのね。大丈夫? クラスのみんなに遅れないかしら、勉強」
「うん、大変だけどがんばるよ。他の部もみんな同じみたいだよ」
「そう・・・。やっぱり部活と勉強の両立って、難しいのね」
母は洗面所へと入り、僕は食堂へと入った。
部活をやっている子供の母親には、どうしてもつきまとってしまう悩みだ。僕は冷蔵庫からパック入りのりんごジュースを取り出しながら思った。
僕が本格的にサッカーを始めたのは、小学校の高学年からだった。それまでも体育の授業でサッカーをやる時が一番楽しかった。物心着いた時から、僕は野球よりサッカーのほうが好きだった。野球の、何時間もかかってしまう試合展開よりも、サッカーの限られた時間との攻防みたいな早い展開が好きだった。一瞬も息が抜けない、そのスリル感が・・・。それにルールもサッカーのほうが単純で分かりやすい。
サッカー漫画を読んだり、テレビでやる外国チーム同士の試合を観たりする度に興奮する僕を見ていて、両親も思うところがあったのだろう。ある夕食のひと時に、さりげなく母が「清ちゃん、クラブはサッカー、やってみる?」と言ったのだ。小学校高学年になったら、児童は必ずどこかのクラブに入らなければならないことになっていた。僕はその場で「うん!」と強く頷いた。父も「そうだな、男の子だし、スポーツやらせるのもいいかもな」と賛成した。
それから母も父も、僕のクラブ活動には協力してくれた。日曜に試合がある時など、両親揃って応援に来てくれたこともある。僕は張り切ってゴールに向かった。サッカーを勧めてくれた両親の期待に応えることもまた、僕の喜びだった。
でも中学生になって、僕の学校での成績が悪くなった時、母は心配した。だが、自分が勧めたのもあってやめろとは言えない状況だった。反抗期でもあった僕は、成績が下がったことに苛立ちを覚え、「母さんのせいだ!」と責めたりもした。今思えば、申し訳なかったと反省できるけど・・・。
中学の時は、たまに試合に出させてもらえる時もあったけど、高校に入ってからは僕の実力では周りに追いつくのがやっとになってしまった。K高校はレベルが高かったのだ。それでも僕は必死で練習に励んでいた。中学の時のようにはならないよう、僕は勉強もがんばろうと思っている。中学の時以上に、部活も勉強も大変になってしまっていると分かっていても。母に心配をかけたくないから・・・。1学期の中間はなんとかいい点が取れた。期末も、点数が下がらないようにしないといけない。
母と二人だけの夕食後、国語と英語の復習を終えると、僕はやっと光樹に電話をかけることができた。
子機とメモを持ち、2度目に押す彼の家の電話番号・・・。僕は間違えないようにゆっくりとプッシュボタンを押していった。
「はい、山藤です」
懐かしいあの声が、耳元に蘇った。僕はその短い一言を聞いただけで、涙が出そうになった。
「あの、僕・・・清太」
「ああ」
彼の声は明るく、温かくなった。
「今日は・・・今は、大丈夫?」
僕は緊張しながら聞いた。
「ああ、真人(まひと)か。大丈夫、今朝学校に行って、その時『今日は自分ちに帰るよ』って言ってたから」
この時僕は初めて、その相手の名前を知った。同時にその名前に嫉妬と悲しさを覚える自分もいた。
「元気? 仕事はがんばってる?」
え、と一瞬意味が分からなくなった。が、すぐに自分はフリーターだと彼には言ってあるのだと思い出した。
「うん。ぼちぼちね。光樹は? どう、大学・・・」
「毎日行ってるよ。学校でパソコンとかいじるから、ちょっと目が疲れる時もあるけど・・・」
「え、目薬とか差してる?」
「うん、この間買ってきた。それはそうと・・・逢いたいな。ね、いつならいい?」
彼からの誘いに、僕は嬉しくなった。今すぐにでも逢いたい。
「ええっと・・・また日曜は? あ、でも・・・サーフィンもあるんだったよね」
少し声のトーンを下げた。
「うん、そりゃ行きたいけど・・・どうしようかな。じゃ、土曜は? 空いてる?」
今度の土曜は第二土曜日で、学校は休みだ。部活はあるかもしれないけど・・・。午後からなら、たぶん逢えるだろう。
「うん、空いてるよ。どこで逢う?」
「そうだな・・・そうだ、遊園地でも行かない? この間は海だったから」
「遊園地? うん、行きたい。どこの?」
僕は声を弾ませた。今の生活とは別天地なところへ、彼と二人で行ける。テスト前だということも忘れて、僕ははしゃいでしまった。
「じゃ、土曜にね。早く逢いたいな」
「俺も。楽しみにしてるよ。じゃあ、おやすみ」
待ち合わせの時間と場所を決め、短いけれど幸せなひと時を終えて僕は子機をホルダーに置いた。胸が一杯だった。彼に逢えるという、その喜びで・・・。彼の明るい声を、どんなにか聞きたかっただろう。
僕が電話をしている間に父が帰ってきたらしく、階下から両親の会話が聞こえてきた。今日は残業の上に会社の人と飲んできたらしい。
翌日も朝練と午後練はあった。夕方部員が集まると、沢本はグラウンドの隅に全員集めて、今日のメニューを説明した。聞いていると、テスト前なのでやっぱり内容は短時間で終わるものだった。今週のメニューは昨日聞いたけど、やっぱり土曜の練習もあるらしい。午前中だけではあるけれど。変更はないようだ。光樹と朝から逢いたかったが、それは叶わないようだ。
「みんな分かったか? では、ストレッチからやるぞ。そら立って」
ストレッチは、毎回必ずやるようになっていた。筋肉を伸ばして、怪我をしないためだ。
「監督、その前に話があるんですが」
みんなが立ち始めている時、愛原さんが口を開いた。
「なんだ、愛原」
沢本は首から提げた笛に手をやりながら言った。
「毎日、後片付けをマネージャーと1年だけがやってますよね? あれ、2、3年も混じってみんなでやったらいいと思うんですが」
臆することもなく堂々と、愛原さんは意見を述べる。昨日何気なく言っていたことを、早速実行してくれているのだ。僕は頼もしい気持ちになった。
「何故だ?」
部員たちは、立ったまま二人の会話を聞いている。
「そのほうが早く終えられますし、はかどると思うんです。それに、1年だけっていうのはあまり意味がないと思うし・・・」
僕はどきどきしながら聞いていた。そのうち沢本が怒鳴るのではないかと思ったからだ。
「意味がない? 前に言ったろう。規律を守るためだって。この部はずっとそれでやってるんだ。そんなことを言うのはお前が初めてだぞ」
「上下関係が、嫌なんです。お願いします」
「こんなの、上下関係ってほどでもないだろ。今日はいつも通りやってもらうぞ」
その場に、嫌なムードが漂い始めた。部員は息を飲む。
「監督」
愛原さんは諦めない。
「・・・考えてはおく。さあ、みんな散らばれ」
沢本のその言葉に、部員たちはほっとした。
ストレッチが終わると、コートの線上に一列に並んで、そこから向こう側の端までドリブルする練習をやった。初めの時間は長く設定し、段々それを短くしていく。それを何往復も繰り返すのだ。次に2対1のマーク練習。マークにつく側、マークされる側を各自が演じていく。それはポジションに関係なく、学年ごとに行った。
僕が順番を待っている時に、足元にボールが転がってきた。来た方向を見ると、愛原さんが立っていた。
「悪い。取って」
手を上げて、愛原さんは大きな声を出した。
「あ、はい」
僕が胸の鼓動を早めながらボールを拾い、投げると、彼は両手を上げてキャッチした。
「サンキュ」
小さい笑顔で軽く礼を言うと、彼はすぐに他の3年生とマーク練習の続きに入った。そっけない態度・・・僕はそう思った。
今の愛原さんの目には、なんの色気も感じられなかった。ただ先輩として、同じ部活の仲間として、接しただけだ。僕は彼のことを深く愛している。だが僕は・・・彼にはなんとも思われていない。それが、僕の確信だった。彼に憧れて入部したその日、自己紹介をする時も、愛原さんは他の新入部員を見るのと同じ目で僕を見ただけだった。それでも僕はその時に、彼を愛し続けることを決めた。彼と同じ場所で同じものを見、感じ、時を過ごすことが僕の幸福だった。愛原さんとは、先輩後輩としてこのまま過ごすしかない。今の僕にはこのほうがいい。関係が壊れるくらいなら・・・。
眠れる太陽、静かの海
9-3
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