サッカー部の練習を終え、家に着くとすぐに、清太は練習着の入った大きな黒いバッグを、バスルーム前の脱衣所へと放り込んだ。2階へ行き、肩からすべり落とすようにしてカバンを置くと、下に身に着けるものだけをタンスから取り出し、汗を流すべく再びバスルームに向かった。
 夏なので、初めはシャワーを水のまま両手に受け、腕、肩、と簡単に流した。次に棒状になっている蛇口をお湯のほうに切り替え、熱くなるのを待って、やはり両手に受け、やがて、適度な温度になると頭から浴びた。
 熱いお湯を浴びている時、濡れた前髪の隙間から、まだ曇っていない鏡に映る、自分の姿を覗き見た。
 そこには、練習で疲れた顔の他に、もう一つの顔があった。

 あの夜から、何かが変わった。あの、武司や涼たちと出逢った夜。
 あれからひと月ほど経つ。
 光樹のことは変わらず愛していたが、一度知らなかった世界を見てからは、「もっと自分を知ってみたい」という欲望が、日に日に色濃くなっていた。
 知る・・・そう、相手を知ることで自分を知る、ということを、清太は覚えてしまった。
 だからかつて、啓二という男にも惹かれた。
 光樹といるだけでは、知り得なかった世界・・・。彼が持っていないものを、武司は持っている。それを受け入れたくて、清太は武司と逢っていた。
 求められると、拒めない。求められると、与えたくなる。それは、奉仕にも似た感情だった。

 曇り始めた鏡を、手でこすってまた見えるようにした。
 鏡・・・清太にとってその相手は、鏡のようなものだった。

『本気じゃなければ、いいよね・・・?』

 愛しているのは光樹だけなのだから、他の者には愛を与えなければよい。与えるのは、体だけだ。
 あの夜から次に逢う時、幸い武司のほうからベルを鳴らしてきたので、こちらから進んで”浮気”しているのではない、という口実もできた。

 お湯を浴びるほどに体温も上がり、唇は徐々に赤く色づき、頬も火照ってゆく。
 肩を打つ、シャワーの飛沫(しぶき)。前髪から滴り落ちてゆく雫。その髪を両手で掻き揚げ、清太は自分の顔をまざまざと見た。

――自分はそんなに特別なのだろうか・・・?

 そんな思いがよぎった。
 見慣れているはずのこの顔に、清太はその時、違うものを見た。
 自分の胸の奥で、焦燥感にも似た熱い火が点(とも)るのを、清太は感じた。

 汗を流し終え、髪を軽く拭いて、下着とショートパンツだけ穿くと、清太は2階の自室へ行き、タンスの引出しの、シャツ類の入った段を開けた。その中から、黒いロゴの入った赤いノースリーブのTシャツを引っ張り出して、着た。派手なので、普段はあまり着ない服だった。下はショートパンツを黒いジーンズに穿き替え、後ろのポケットに財布を入れた。次に、机の上の小物入れを開け、銀のフェザーのヘッドが付いた黒いチョーカーを取り出して、首に着けた。

 今、母親はパートに出ていて、家にはいない。今日は、辞める人の送迎会があるから、遅くなると言っていた。父も、仕事で夜までは帰って来ない。つまり、清太は一人だった。
 帰ってから一度外した腕時計を再び着け、時間を見ると、6時前だった。
 清太は洗面所の鏡に向かった。ドライヤーを使って髪を乾かし、ヘアワックスを塗り、髪形を整えた。ふと口元へ、右手をやった。・・・もし自分が女なら、ここで口紅を塗るのだろう・・・と、清太は思った。彼の唇は元々色味を帯びているが、シャワーを浴びたばかりなので今は一層赤く、潤っている。

 彼は夕食をどうしようかと考えた。母は、冷凍庫にあるものをレンジで温めるか、お弁当を買って来るかしてね、と今朝言っていた。部活帰りで疲れているだろうから、本当は作っていってあげたいけど、朝から夜までいないので今日はごめんね、とも言った。
 清太は早く出かけたかったが、思うところあって冷凍の海老ピラフを出して温め、インスタントの野菜スープをジャーのお湯で作り、食べ終わると歯を磨いた。磨いてから、また髪を手櫛で整え、それが済むとやっと玄関へ行き、黒いラバーソウルを履いて、ドアノブに手をかけた。


*

「涼」
 武司が後ろから呼びかけた。涼は振り向く。
 午前の授業を終え、廊下へ出て、食堂へ向かうところだった。武司とは今まで、同じ教室にいた。
「なんだよ、置いてくなよ」
 武司は涼の肩に手を回し、言った。
「離せ」
 涼は煙たそうに、胸を反らし、肩を動かした。武司は仕方なく、すぐに離した。
「お前、最近俺のこと避けてるだろ」
「別に、避けてない」
 涼は武司のほうは見ずに、ずんずんと棟外の学食へと歩いていく。
「避けてるって。今日だって、俺が座ってたとこの、横に来なかったし。お前、俺が先に教室入る時、ここんとこいつもそうじゃねぇか。離れて座ってよ・・・」
 逆の時は、武司は涼の横か、列の端に先客がいて入りにくい時は後ろ、または前に座った。大学の席は何故か皆、端の席に好んで座る。

「・・・やっぱ、清太のことか?」
 涼に合わせて早く歩きながら、武司は声を少し低くして言った。涼の目が一瞬見開かれるのを、武司は見た。
「・・・分かってんなら聞くな」
 涼は声を抑えながら、いらだつように吐き捨てた。
 あの最初の夜から、大分経っていた。武司は清太と相変わらず逢い続けている。そして相変わらず、涼は清太のベル番号を、武司に聞けずにいた。いや、一度は聞こうとしたのだが・・・。涼の想いは限界に近かった。武司には悟られてしまっていた。
「・・・で、まだ清太には逢えないままか」
「ああ」
 涼が力なく言うと、武司はいつか見せたような、黒い表情をした。
「じゃ、あのこと、まだ役に立ってねぇんだな」
 それを聞いて、涼は脚を止めた。肩を震わせた。
「・・・あのことは言うな」
 怒りと恥ずかしさの入り混じった声を、静かに搾り出した。
「分かったよ。・・・それじゃ、二人で分けようか? あの夜みたいによ・・・」
 再び涼の肩に手を置き、彼の顔を覗き込むように、武司は言った。
 涼は顔を上げ、武司を睨んだ。
「馬鹿にするな!」
 たまらず、叫んだ。
 その時には、棟の外へ出ていた。周りの学生は自分たちの会話に夢中で、彼らのほうを振り向いたのは、すぐ近くにいた者たちだけだった。
 武司は彼の持つくせで、また鼻で笑った。
「フッ、冗談だよ。お前って相変わらず、からかうと面白いのな」
 涼は怒って、武司を無視して一人で学食へと走っていった。
 後ろ姿を、武司は目で追った。にやつきながら・・・。

  
*


 夜の公園。両側に木々や植え込みを見ながら、清太は一人歩いていた。
 赤いノースリーブのTシャツが、闇夜にもよく映えていた。
 ある木陰下にいた、若い男二人のカップルの一人が清太を見つけ、彼に見とれた。と、気付いたもう一人が「どこ見てんだよっ!」と、相手のみぞおちに軽く拳骨をくらわせた。見とれていたほうは、慌ててすかさず謝った。

 暗闇から街灯の下に現れる度、清太の姿は浮き彫りになり、そこかしこに潜む男同士のカップルの、目を引いた。
 清太の中では、「もっと自分を知りたい」というものより一歩進んだ思い――「もっと自分を試してみたい」――との思いが、心を支配していた。それが、あの鏡を見た瞬間にはじけ、生まれたのだ。
 彼は周りから、否応なく視線を感じた。もう幾度となく浴びている、まといつくような湿気のある、この視線・・・。慣れてきたとはいえ、この視線にはやはり少なからず恐怖を覚える。その恐怖も、今の清太には触れてみたいとの誘惑でいっぱいだった。

 2丁目で耳にしたり、雑誌で読んだりしたことはあったが、実際にこの手の公園に脚を踏み入れたのは、清太は初めてだった。その夜限りのパートナーを探して、同類が集まる公園・・・。彼は歩を進めた。暗闇に目を凝らすと、年齢の離れたカップルもいた。寄り添い、何か囁きあっているらしい。木陰だけでなく、植え込みにも彼らはいた。その誰もが、清太を見つけると自分たちの時間を止め、じっと見つめた。気付かない者は、そのまま時間の中に身を投じた。

 そこへ、ポツ・・・ポツ・・・と、清太の顔を濡らすものがあった。
『雨・・・?』
 彼は暗い空を見上げた。小雨だった。だが、そのうち降りが激しくなるかもしれない。清太は当然、傘など持っていなかった。
『早く・・・誰か捕まえて・・・ホテルで雨宿りしなきゃ・・・』
 清太はすたすたと、早歩きになった。
 カップルでなく、一人で歩いている者を見つけなければならない。・・・と、向こうから一つの人影が、こちらへと向かってきた。
『あ・・・あの人も一人かな?』
 清太は安心した。人影は、どうやら若者のようだ。いつかの電車での男のように、あまり年の離れすぎた者を相手に選ぶのは、清太は望まなかった。
『誰でもいいや・・・。あの人に一緒にホテルに入ってもらおう』
――だが、近づいてきた人物に、清太は息を止めた。
『え・・・?』
 まさかと思った。向こうから来た男のほうも足を止め、驚いている。

「涼・・・」
 そこには、雨に濡れた彼が立っていた。
 とっさには、言葉が出ないようだった。その場を取り繕うように、濡れ始めた髪を掻き揚げた。
 清太は背中に、汗が流れるのを感じた。
 涼が、やっと口を開いた。
「清太・・・何故君が・・・こんなところに・・・」
 信じられない、という声を出した。
「ここがどんなところか知って・・・」
 清太は眉を歪めた。
「うっ・・・うるさいな! あんたには関係ないだろ!」
 と、顔を背ける。
「だいたいなんで、あんたこそここにいるのさ!?」
 そして、涼のほうに向き直り、顔を見つめ、皮肉な表情をしながら言った。
「一人で・・・どうせ売るか買うかしに来たんでしょう?」
 何も言えない涼。だがやがて、ズボンのポケットに両手を入れ、俯いて静かに言った。
「少し・・・歩かないか・・・。どこか店入って・・・あったかいものでも飲んで・・・」
 雨のせいか、ノースリーブの肩に、少し寒気を感じていた清太だった。  


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