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 透吾はそれからもRに通い続けた。仕事が終わると、すぐに駅へと脚を急がせる。残業がある時などは、もどかしかった。デスクでパソコンに向かいながら時計を気にし、『今日来ているかもしれない、今来ているかもしれない』と思うと、気が気ではなかった。家でできる仕事があれば、持ち帰ってやろうと途中で切り上げることもあった。上司や同僚からの酒の誘いも、今まで以上に断った。

 そんな忙しない透吾の動きを見て不審に思ったのか、ある日帰り支度を始めている彼に、佐藤が話しかけてきた。
「もう帰るのか。片桐お前、最近なんかそわそわしてるな。付き合いも悪いじゃないか。どうしたんだ?」
 荷物を詰めていたカバンから手を離し、透吾は顔を上げた。
「ちょっと・・・な。プライベートなことだ」
 すると佐藤はあ、と何か思いついたような顔をした。小声になって片桐に近付き、「誰かに逢いに行くとか?」と聞いた。
 透吾は斜交いに相手の目を見た。すぐには答えなかった。
「お前ひょっとして・・・」
「ああ、できたんだ。気になる相手が・・・」
 それを聞き、佐藤は「ほほう」という形に口を開いて、大人げもなく嬉しそうな顔になった。まるで学校の先輩のような・・・。

 会社ではし辛いから、と駅までの道で透吾は話した。
「実は・・・バーで知り合ったんだ。すごくきれいな子で、なんていうか、いっぺんで・・・」
「一目惚れってやつか」
「ああ」
 女だとは一言も言っていないが、佐藤はそう思っているのだろう、と透吾は感じた。
 秋なのですでに日の暮れた暗い道を二人で歩いているが、自分が向かう駅はできるだけ知られたくない。どこか途中で別れなければ・・・。そんな算段もしていた。
「それでもう、付き合ってるのか?」
「いや、まだ・・・。でもその店によく来るから、話はする。色っぽい子なんだ」
 言っていることは嘘ではない。ただ、佐藤の頭の中では現実と違う情景が描き出されているだけだ。
「そうか。いやでも、安心したよ。こうやって話すようになってから、一度もお前からそんな話聞いたことなかったから、心配してたんだ。ただ仕事熱心なのか、それとも、まさかゲイなのかってな」

 友人からは聞きたくない言葉が、佐藤の口から零れた。以前、透吾が彼に自分の性癖を明かそうと思っていた時にも同じ言葉を聞いた。それきり、透吾は隠し続けることを決めたのだ。これで永遠に、彼に秘密を明かすことはないだろうと透吾は思った。
「何言ってるんだ。冗談よせよ。女に決まってるだろう」
 透吾は笑ってみせた。この一言で、佐藤の想像はより鮮明になったろう。そして自分は彼にも自分にも嘘をついた。
 駅構内に入り、俺は切符を買うからここで別れようと佐藤に言うと、彼は承諾してくれた。その後ろ姿を、透吾は何も考えず目で追った。


 その日Rへ着くと、透吾が清太にこっぴどく突き放された日にいた少年の何人かが、店にいた。その中にはアキちゃん――章裕もいた。彼らは透吾の姿を認めると、くすくすと笑ってひそひそ話を始めた。透吾は良くない気持ちのまま、カウンターへと着く。甘いカクテルを頼んだ。
 店内には清太も啓二もいない。あの日から、透吾が来る時間には二人は一度も現れたことがない。待ち合わせの時間を変えたのだろうか。そう思っている間にも、後ろのほうから少年たちの侮蔑的な視線を感じる。耳を澄ますが、店内の音楽で聞こえない。今日はヒップホップがかかっている。あまりに気になるので透吾はカクテルが来るとそのグラスを持ち、立ち上がって彼らのそばのテーブルへと移動した。少年たちは「おっと」と口に手を当て、黙った。しかし小馬鹿にしたような笑顔は消さない。

 その中の一人、章裕が、思い切って声をかけてきた。
「兄さんさ、懲りないよねー。振られたのに諦めないなんてね。清太くんがまだここに来ると思ってんの?」
 その言葉に合わせて、周りの少年たちもくすくすと笑う。
「何? どういうことだ?」
「だって、嫌いな人が来るお店なんて、僕だったらもう来たいと思わないもの。僕だったら変えるね。実際来ないじゃない、清太くんたちこの頃」
「だめだよそんなヒント言っちゃ。ずっと待ってたら面白かったのに」
 別の一人が片手を上げる手振りを交えて言った。

「お前たち、何か知ってるのか?」
「さあ」
 と少年たちは口を揃えた。透吾は苛ついた。
「もういい」
 とグラスを呷(あお)った。
 もうここには来ないだと・・・? 本当に店を変えたのか。自分が知らない間に二人は逢って、抱き合っているのか。思っていると、一人の若い青年が近付いてきた。顔はこの店で見たことがあるような気がしたが、名前は知らない。

「透吾さん・・・だっけ? 俺、いつもあんたたちのやりとり見てたんだ。清太くんなら、Bって店で見たことあるよ。啓二さんと一緒にいた」
「B? 本当か?」
 彼の名前を聞くことも忘れ、透吾は言った。Bは見かけたことのある店だが、入ったことはない。だが場所は分かる。
「ああ、本当。あんたが清太くんと知り合う前からかな、そこで待ち合わせすることもあるみたいだよ 。俺もよくBに行くから」
 二人のやりとりを、少年たちは残念そうに見ていた。なんだ面白くない、という顔を皆していた。
 図らずも知った重要な情報を、透吾は頭の中で何度も反芻した。
「そうか、ありがとう。これからも無駄に待つところだった。君は?」
 晴れやかな顔を、透吾は青年にしてみせた。
「ここではタカって呼ばれてるけど・・・」
「覚えておく」
 透吾はすぐに席を離れてカクテル代を払うと、Rを出て行った。
――しかし、Bに行ってみたが、その日は二人は現れなかった。


 それを失恋と名付けることを、透吾は許さなかった。必ず想いを成就させてみる。たとえ彼の心が得られなくても、体を結ぶだけで十分だ。
 何が『もう関わらないで』だ。彼氏がいるのに他の男――啓二と付き合って、俺は避けるのか。きれいな顔をして、本当は淫乱なだけじゃないか。なのに可愛子ぶってやがる。男なら誰でもいいくせに・・・。夢での清太は、もはや透吾の中では現実の衣をまとっていた。怒りと期待だけが、彼を包んでいた。
 別の日、通う店をBに変えて、透吾は待ち続けた。
 今日はカシスオレンジを頼んで、カウンターで慣れない座り心地のストゥールに腰かけていた。
 カシスオレンジ・・・あの少年と出逢った日も、これを飲んでいた。啓二に寝取られた、あの少年と・・・。

 名前は道尚(みちひさ)と言った。Rに一人でいる彼を見つけて、自分から声をかけた。酒が飲める年ではないのに、カウンターに座ってコーラを飲んでいた。透吾は彼と幾つか離れたストゥールにいた。
「それ、ジンとか入ってるの?」
 離れたまま声をかけ、彼が振り向いた瞬間に一度立ち上がり、隣へと落ち着いた。
「それ」
 透吾は少年がテーブルの上で両手を添えているグラスを、指差した。
「ううん、俺未成年だから・・・ただのコーラ」
「そう。いくつ?」
 そんな風にして、会話は始まった。「”みちひさ”ってどう書くの?」と聞くと、彼は”道”を説明した後、透吾の左掌(てのひら)の上に指で”尚”と書いた。口では説明し辛いからか。そのくすぐったさに、透吾は笑った。すると少年も笑った。可愛らしいその顔を、今も忘れない。

 あの隣で笑いかけてくれた少年は、今はもういない。啓二のものになった後、店で会ったが彼は少し申し訳なさそうな顔をしていた。抱かれた後で、自分の気持ちを知ったのだろうか。その時自分が、情けない顔をしていたから悟ったのか。その後はなんとなく疎遠になり、Rにも来なくなった。風の噂で、啓二ではない別の彼氏ができたと聞いた。
 あの時の辛さは、道尚の可愛らしい笑顔とともに忘れられない。あの時とは逆のことを、啓二にしてみせる。あいつの鼻をあかしてやる。同じ思いをさせてやる。


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