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もうあの男は現れない。Bならば、透吾の顔を見ないで済む。どこか心に晴れやかなものを感じながら、清太は店のドアを開けた。が、開けた手をすぐにはドアノブから離せなかった。その男と、目が合ってしまったからだ。
『どうして・・・?』
透吾がカウンターに腰かけて、体も半ばこちらに向けて、見ていた。相手も目を見開いたようだ。清太は動揺を隠しながら、すぐに目を逸らした。そのまま奥のボックス席へ向かおうとしたが、何か飲み物を頼まなければならない。仕方なくカウンターに近付き、バーテンダーにサイダーを頼んだ。透吾とはストゥール3つ分しか離れていない。その間も、男の視線を感じる。その視線には威圧感があった。清太は緊張に跳ね上がる鼓動を持て余しながら、グラスが出てくるのを待った。それを受け取ると、早足でボックス席へと向かう。彼の目からできるだけ遠ざかれるよう一番奥の席を選び、入口がよく見えるよう壁側のソファに座った。
店内は青い照明で照らされ、落ち着いた雰囲気を持っている。流れている音楽も静かなものだ。客は、清太より年上の大人たちが多かった。サラリーマン風の男たちが、そこかしこに座って語らっている。彼らは自分たちの世界に入っているようで、Rの客ほど清太をまじまじと見つめるようなことは少なかった。中には少しだけ若者もいた。しかしその恋人はやはり大人だったりした。
『なんで、あの人がいるの・・・?』
清太は理由を考えた。まさか愁が教えたのではないか。彼の友達――あの少年たちにはまだいいが、透吾にだけは言ってほしくないのに。それとも、他の誰かが・・・? 友人を疑いたくない彼は、後者であってほしいと願った。渇いてきた喉を、清太はサイダーで潤した。
とにかく一人でいたくない。早く啓二に来てほしい、と願っていると、目の前のテーブルに影が落ちた。恐る恐る顔を上げると、その男は立っていた。なんの気兼ねもなく、目の前に座る。
「透吾さん・・・。なんで? どうしてあなたがここにいるの? 教えてないのに・・・」
透吾は鼻で笑ってみせた。
「心配するな。愁じゃない。別の奴に聞いた」
友情が守られていたことに安心するも、清太の不安は消えない。
「なんで、僕を追っかけるの? はっきり断ったのに・・・」
膝の上に両手を乗せ、相手の目を見ずに清太は聞いた。
「諦められないからだ」
「だって、僕には・・・」
少年はやっと顔を上げる。
透吾は忌々しげに舌打ちした。清太は驚きを見せた。もう、紳士的な態度は取らない、ということか。
「可愛子ぶるなよ。お前、啓二を愛してなどいないんだろう?」
今までと打って変わって『お前』と呼ばれ、清太の心臓は一層萎縮した。
「ただ奴と寝たいだけなんだろう? だから彼氏と別れることもなく付き合ってる。男なら誰でもいいんじゃないのか?」
「違う! ばかにしないで!」
自尊心を傷付けられ、清太は怒気を含んで言った。
「じゃあどうして言わない? 啓二が好きだって。どうして俺に言わない?」
清太はそこで言葉を詰まらせたが、やがて言った。
「あなたには関係ない」
「じゃあ、やっぱり寝たいだけなんだな」
透吾は前かがみになっていた姿勢を変えてソファに背を預け、侮蔑的な目で少年を見下ろした。
「違う。彼には・・・惹かれてる。嫌いだったら、付き合わないよ」
「じゃあ、恋人っていえるのか?」
しかし少年は首を縦に振らなかった。しばらく俯いていた。
「恋人じゃない。愛してるかは分からないよ。でもあの人は、僕を想ってくれてる。あなたと違って」
最後は透吾のほうを見た。抵抗を受けても、青年は動揺する素振りも見せない。
「彼氏は? 浮気して、彼氏に悪いと思わないのか?」
「思ってる。でも、啓二さんとは別れられないんだ。あの人、強引なところがあるから・・・」
ついに二人の間に溝を見つけた透吾は、心が躍るのを感じた。その狭間に、押し入ろうとした。
「じゃあ、ずっと付き合ってくつもりはないんだな? いつかは別れたいんだな?」
すると清太は苦悶の表情を見せた。
「もしそうだとしても、あなたのところへ行くことはないよ。永遠にない」
清太は強く言った。これで諦めてほしいと願った。
透吾は黙り込み、何も言わない。念を押そうと、清太は重ねて口を開いた。
「とにかく、僕はあなたに興味なんてない。あなたが入る隙なんてないんだ。だから、もう僕の前に現れないで。何度も言わせないで」
「俺は諦めない。何度も言わせるな」
男は真顔で言う。強硬な態度は変わらなかった。
「どうして・・・? どうしようもないじゃない。もう、やめてよ。困らせないで。僕の気持ちがあなたに向くことはないんだから・・・」
「そんなもの、もうなくたっていいさ」
透吾は意味ありげに言った。
「啓二は何時に来る?」
彼は急に話を変えた。清太は腕時計を見た。
「7時から・・・7時半の間。先に来て、待ってるように言われた。少し仕事で遅くなるかもって。・・・あなた、啓二さんが怖いの? いつも鉢合わせるのを避けてる」
「別に怖くはないさ」
それだけ言い残し、透吾は席を離れた。まだ話はついていないのに・・・。わだかまりを心に残したまま、清太は啓二を待つことになった。
透吾が戻ったカウンターの席は、仕切りや柱に遮られ、そのボックス席からは死角になって見えなかった。透吾の様子は、窺い知ることができない。一人、酒を飲んでいるのか・・・。見えない分、よけい不気味だった。
一体どうするつもりなのだろう。何故、そんなにも自分と啓二との間に入ってこようとするのだろう。どうしたら逃げられるのだろう。
啓二を待つ時間は、いつもより長く感じられた。またあの男が来るのではないかと、恐れた。時間を潰すために喉を潤すので、グラスのサイダーはなくなってしまった。2杯目を頼みに行こうか・・・。しかし、それには透吾の視線を浴びなければならない。あの、猟をする者のような目を・・・。
思い惑っていると、幸いボーイがそばを通ったので、彼に今度はアイスティーを頼んだ。しばらくして、新しいグラスが運ばれてきた。清太は胸をなでおろすようにストローで一口飲んだ。
7時15分頃、やっと啓二が現れた。ドアの隙間に彼の姿を見つけて、清太は駆け寄っていきたくなった。しかしそれは抑えた。啓二が自分を見つけ、近寄ってくると、立ち上がって彼を迎えた。啓二は前の席ではなく、横に座ってきた。少し迷ったが、清太はそれを受け入れ、横にずれた。
「いつも悪いな、待たせて。今日は2杯目も頼んだのか」
「ううん。だって啓二さんお仕事してるんだもの」
「なんだ、素直だな。いつもそうしてくれると、嬉しいぜ」
啓二は清太の肩を抱いた。清太も拒まない。彼の紺色のスーツの胸に手を置いた。
彼はボーイに声をかけて呼び、ドライマティーニを頼んだ。一時でも啓二に離れてほしくなかったので、カウンターまで行かなかったことに清太はほっとした。
語らい始めた二人だが、清太はすぐに店を出たかった。透吾から早く離れたかった。
「ねえ、もう・・・」
清太は啓二に寄り添ったまま、囁いた。
「今来たばかりじゃないか。そう急かすな」
啓二は微笑み、清太の髪にキスした。
彼が聞いてくるので、清太は学校での他愛ないことを話した。同級生や先生の面白いことを話すと、啓二は笑ってくれた。それは自然な笑顔で、彼の美しさは一層際立った。彼と別れたいと思いながらも、そんな彼の笑顔に胸は締め付けられてしまう。自分の矛盾に、清太は悩んでいた。
それよりも・・・。今カウンターにいる男のことを、今日こそ話すべきだろうか。それとも、今日は透吾はもう、何も言ってこないだろうか。啓二と一緒にいれば、彼は近寄ってこないのではないか。この、自然に守られている状態を保てばよいのだ。啓二が怖くないなどと言っているが、今のところこちらへ来る気配はない。
「清太? それで?」
考えていると、啓二は会話の続きを促した。
「あ、うん、それでね・・・」
酒が回ってきたのか、啓二はそのうち清太の手を取った。清太も握り返した。頬に口付けもしてきた。その時には、清太の学校の話ではなくなり、啓二は自分が、仕事中も清太のことを考えてしまうと話した。やがて、唇は清太のそれを追った。
「啓二さん、待って」
座っているソファが、周りの客に背を向けた側ではないので、恥じらいを覚え清太は彼を止めた。
「あの・・・ちょっと、待ってて」
続けて立ち上がった。グラス2杯の飲み物が、生理現象を生み出していた。彼の人目を憚らないキスを逃れる意味もあったが、ホテルに行ってからでは雰囲気を壊すので、清太は今行っておこうと思ったのだった。啓二は事情を飲んで頷いていた。清太はそのまま店の手洗いへと向かう。
ボックス席の群れを出ると、否応なくカウンターを目にすることになったが、そちらを見ないようにして清太は歩を進めた。透吾は先程の席にいたようだが、目を向けていないので顔は見なかった。しかし、こちらを振り返ったような感じが、視界の端に入った。
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