手洗いに入った清太は、用が済んで出てきたスーツ姿の男一人とすれ違った。中には誰もいなく、清太一人だった。
 学校ではそうでもないが、Rなどこの辺の店では、横から覗いてくる者がいるので、できればこの場所では一人になりたかった。
 ほっとして、清太は陶器の一つの前に立ち、用を足し始めた。

 その時、タイルの床を歩く革靴の足音が、入口から聞こえた。清太はそのほうを見た。見た途端、息を引いた。眉を歪め、こちらを睨むような目つきの透吾が、そこにはいた。こちらへ歩み寄り、清太の横に立った。用を足しに来ただけだと、清太は思おうとした。が、横にいる透吾は、さらに近付き、じっとその手元を見ている。
「なっ・・・、なんだよっ、見るなよ!」
 すると透吾はにやにやとした。
「可愛いもんだな。まあ、それ以上じゃ不釣合いだがな」
「見るなってば!」
 ようやく用が済み、清太は急いで出されていたものをしまった。そのまま透吾をすり抜け、無視するようにすたすたと、洗面台に向かい歩く。

「受けるだけだからな。相手にしゃぶらせるか、握らせるだけだ」
 自分の後についてき、背後から透吾は言う。手を洗いながら鏡を見ると、にやついた顔はそのままだ。清太は真っ赤になりながら、鏡の中の彼に強く言った。
「用がないならあっちに行って! 出てってよ!」
 一番見られたくない姿を嫌いな男に盗み見され、清太は羞恥と怒りで興奮していた。ジーンズのポケットから取り出した青いハンカチで手を拭く動作も、自然と荒々しくなった。

「あっ!」
 次の瞬間、少年の体は後ろから男に抱きすくめられていた。ハンカチは、洗面台の器の中へと落ちた。鏡の中を見ると、男の表情は怒りに満ちたものに変わっていた。少年が着ていたオフホワイトのカットソーの裾から手を差し入れ、胸をまさぐった。肩越しで、男の荒い息が頬にかかる。唇が動き、首筋に吸い付いた。
「やっ、嫌だっ、何すんだよ!」
 清太は男から逃れようと、激しくもがいた。
「俺はお前が欲しいんだ!」
 男のもう片方の手は、少年の下半身へと伸び、強く握った。
「やっ・・・」
「啓二には、何でも好きにさせてるんだろう? 啓二はよくて、なんで俺じゃだめなんだ?」
 掠れた低い声で、透吾は言った。
「だか・・・ら、何度も言ってるでしょう? あんたみたいな・・・体だけって人は嫌いなんだ!」

 すると、男はさらに強く前を握った。ジーンズを通して、男の握力が伝わる。
「痛いっ、やめてっ!」
 少年は身をよじり、男を振り切った。振り切った時、爪の先が男の頬に当った。透吾は軽い痛みを覚えながらよろめくが、体勢を立て直して再び清太に迫った。
「来るな!」
 少年は男の迫るのと反対方向へと逃げなければならず、それは手洗いの奥に向かうことになり、壁の手前で左手首を取られてしまった。透吾は清太を壁に押し付け、今度は向き合う形になった。彼は少年のあごを乱暴に掴んだ。
「本当はお前が誘ってるのか? 啓二を・・・。この顔で、目で、体で、いつも男を誘ってるのか?」
 蛍光灯の灯りを背中に受け、逆光になった青年の凄んだ顔を、清太は怯えた目で見た。

「違、う・・・。誘ってなんか、ない・・・」
 あごを握られたまま、少年は首を横に振った。が、それが一層男の怒りを募らせたらしかった。
「誘ってるんだ! お前が意識していなくても、お前を見た途端、男はどうしようもなくなるんだ。分からないのか?」
「あ、あんたなんか、僕の何を知って・・・」
 透吾は一度目線を外し、再び片方の口角を上げながら戻した。 「俺は知ったさ。夢の中でな。俺はお前を抱いた。お前は、どこまでも淫らだった。俺を求めてきた」
「そんなの、知らない! どうかしてる!」
 少年はまたもがいた。

「来るんだ」
 青年は少年の手首を引っ張り、個室の一つを目指した。
「嫌だ!」
 清太は逆に引き、抵抗を見せた。すると透吾は清太をまた後ろから抱きしめる。
「や・・・放して!」
「そんなに嫌なら・・・啓二を呼んでみろ。あいつに聞こえるくらいの大声で、叫んでみろ」
 少年の胴は、男の両腕にきつく巻かれていた。男の持ち上がっているものが、後ろに当たっているのが分かる。
 透吾は清太が大声など出せない性格の少年だと、目論んでいた。
「・・・」
 清太は黙ってしまった。
「お願い、放して・・・。やめて・・・」
 やっと声を出したが、それは小さなものだった。

「何をしている?」
 その時、二人の背後で声がした。男らしい、どこか懐かしい声。清太は救いを見つけて、声の主を見た。啓二だった。隣には先程入口で清太がすれ違ったスーツ姿の男がいた。
「すまない、俺たちだけにしてくれ」
 啓二は清太たちに横顔を見せ、青年に請うた。青年は頷くと、出て行った。
「遅いと思っていたら、あの男が、気になるからと教えてくれたんだ。俺の連れの後に、様子が変な男が入っていったってな」
 透吾は少年を放し、振り返った。そして再び少年を見た。

「・・・愛しているのなら、その男の胸に飛び込んでみろ」
 言われ、清太は戸惑った。『愛しているのなら』という言葉に、踏み出そうとしていた心に歯止めがかかった。
「来い、清太」
 清太は二人の青年の間で視線を往復させた。
「来い」
 啓二は腰のあたりで両掌を上にし、手招きした。
「・・・啓二さん」
 一歩、二歩、少年の脚は初めはゆっくりと動き、最後は駆け寄って、啓二に抱きついた。青年は少年の背中に手を添える。
「怖かったか?」
 清太は頷く。

「あんた、俺を覚えてるか?」
 透吾は寄り添う二人を無表情に見ながら、啓二に問うた。
「何? お前をか?」
 啓二は清太の体を軽く抱いたまま、思い出すような表情をしてみせた。
「誰だったかな」
 記憶を辿った後(のち)ほのかな笑みを湛え、言った。
 透吾は僅かに表情を険しくした。
「あんたが覚えてなくても、俺はしっかりと覚えてるんだ。道尚のことだ」

「道尚? ・・・ああ、あの子か。お前も、思い出したよ。名前は知らないがな」
「透吾だ。知ってたのか? 俺があの子と話してたって」
「ああ。なんとなくな。あの子はもう、Rにも来なくなったな。何故か知ってるか?」
「・・・知ってる」
「彼氏ができたんだったな。お前じゃなかったんだな」
 透吾は相手に分からぬよう拳を握り、唇を噛み締めた。
「あんたでもなかった」

「ふっ。お前が早く手を出さないからだろう。俺は別にいいさ。一度抱ければな。だが清太は違う。清太は俺のものだ。こいつも俺を求めてる。だから付き合ってるんだ。そうだろう?」
 啓二は首を斜めに傾け、清太に聞いた。ややあって、頷く代わりにより深く啓二の胸に顔を埋める清太。啓二は不敵な笑みを崩さず、向き直った。
「諦めるんだな。・・・この男に抱かれるつもりなんて、ないんだろう?」
 清太は透吾を見やり、頷いた。

「あんたは、抱いた相手の顔も名前も、ろくに覚えてないんだろう。だから抱いては捨てている。清太、お前もきっとそのうち捨てられるんだ」
 透吾は負け犬の遠吠えと分かっていながらも、言わずにはいられなかった。
「覚えてるさ。一人一人、特徴があるからな、”あの時”は・・・。声や、表情や、仕種・・・、昼間とは違ういろんなものを俺に見せてくれる。だから道尚だって、ちゃんと覚えてる。たとえ一夜でも、俺は相手のそういうものをみんな受け止めてやってきた。愛したさ」
「あんたが愛したなんていうな!」
 透吾は叫んだ。

「何をいきがってる。お前が俺の何を知ってる。ろくに話したこともない。周りの噂で聞いているだけだろう?」
 愛人の少年と同じ言葉が、啓二の口から零れた。自分が見つけた二人の間の溝は、塞がってしまったように透吾には思えた。
 啓二は笑みを消し、真面目な表情になった。
「俺は清太を捨てない。捨てるわけがない。理由は、言うまでもないな」
 啓二はまた胸の中にいる少年を抱き寄せ、瞳を見つめた。口付けを求められていると悟った清太は、そっと目を閉じ、応じた。拒む気持ちは起きなかった。人前であることへの躊躇さえ、忘れた。互いにすぐには離れがたく、それは数秒続いた。
 透吾はとうとう、反論の言葉を失った。

 唇を離した清太は、口付けによる胸の高鳴りを抑えるため、啓二の胸に頬を預けた。やがて彼の鼓動を感じながら、安心している自分がいることに気付いた。透吾への恐怖は消え、心が穏やかになっている。守られていると、素直に思える。いつかは別れたいといつも思っている、この強引な男の腕の中で・・・。
 こんな男でも、今は頼るしかない。本気で愛していなくても・・・。


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