その後も、夢の記憶は透吾の頭にまとわりつき、悩ませた。
電車の中でも、会社にいて仕事をしていても、清太のなまめかしい姿態を、交合の時を、思い出してしまう。
幾筋も額や頬、首筋、胸や胴に流れる雫。それは二人が動くごとに流れゆき、月明かりに一つ一つがきらめいていた。自分がより強く腰を揺らすと、彼の眉間には皺が寄り、唇からは熱い吐息が漏れる。・・・
思えば、あれほど激しい交わりは、久しくなかった。彼ほど美しく、妖艶な少年や年上の男は記憶の中には存在しない。あれほどの快楽と幸福は、かつてない。
「続いて、マーケティング部の片桐くんから資料の説明を・・・。片桐? どうした、片桐?」
営業部の者の声に、透吾は我に返った。
透吾は広告代理店のマーケティング部に所属し、一つの広告を作るごとに、営業部や制作部の者とチームを組み、仕事に当たっていた。彼の部は広告主(クライアント)からの要請に従って、消費者動向の調査や資料作成に当たったり、制作チームに資料を元にした助言をしたりする。今は女性誌に広告を出したいという化粧品メーカーのクライアントの依頼を受け、集められたチームで企画会議を行っている最中だった。
「あ、はい、すみません」
透吾は慌てて席を立ち、手元にあるレジュメを手に取った。同じものが、営業部や、制作部のクリエイティブディレクター、アートディレクター、コピーディレクター、媒体部などの手元にもある。ちなみに営業部は、クライアントから直接オリエンテーションを受け、社内の人間に広告依頼内容を伝えるのが仕事だ。
立ち上がった後、会議室の前方へと向かう時、透吾は自分の体が熱くなっており、震えているのが分かった。自然に歩いているように周りに見せるのに、苦労した。
「お配りした資料は・・・」
ホワイトボード前に出て発せられた第一声も、透吾の気負いとは裏腹に、上ずったものだった。そんな彼に、不審を抱いた幾つもの視線が刺してくる。
午前中の会議が終わり、部に戻って自分のデスクに着くと、透吾は疲れを感じ、椅子にどっと腰掛けた。周りの同僚は皆昼食に出かけようとしているが、今椅子に沈めたばかりの体を、動かす気にはなれない。目の前の真っ暗なパソコン画面を、ただじっと見ていた。
あんな僅かな失態でも、今まで自分は人前で見せたことはなかった。
いつでも自分は、機敏に行動していた。
自分の性癖は、社内の人間には気付かれないよう、ずっと努力してきた。
前の晩に恋人とベッドでいい思い出を作ったとしても、それを仕事中に思い出すことは、極力抑えてきた。
それが、今度ばかりは・・・。
なんたる失態だろう。
今まで、恋愛において支配することはあっても、されることはなかった。年下が相手の時は特に・・・。
なのにあの少年は、今自分を支配しようとしている。
それも現実ではない、夢で交わっただけなのに、だ。
あれから二日経つのに、印象はいまだ鮮明なままだ。
なんてことだ。子供のくせに、大人を支配しようというのか。
透吾は椅子に埋もれたまま、膝の上で両手を組んだ。眉根を寄せる。
その時、また思考を破る声が上からした。
「片桐、何してるんだ? 昼飯(ひるめし)行かないのか?」
声の主は、同僚の佐藤だった。彼は転職組で、年は二つ上だが、入社の時期はそう変わらない。彼が、透吾が自分の性癖を告白しようとしていた友人だった。
「ああ、ちょっと会議長引いたから。一緒に行こう」
部屋から廊下に出て、エレベーターへと向かい、二人並んで歩いた。
「いつもの定食屋にするか?」
エレベーター前に着くと、佐藤が言った。
「ああ」
透吾は気のない返事をし、軽く頷く。すると佐藤は呆れたような笑顔を作った。
「なんか、お前疲れてるな、今日。目が赤いじゃないか。寝てないんだろ?」
透吾は一瞬どきりとしたが、猫背気味になっていた背を伸ばした。
「うん、ちょっと遅くまで、家で資料を読み込んでた。今日会議で使うから」
理由は違うが、あまり寝ていないのは本当だった。また清太が夢に出てくるのではないかと、あの夢を見るのではないかと、怖くなって寝付けなかったからだ。
「彼女じゃないだろうな?」
佐藤は軽口を叩くような感じで、笑顔でそう言った。
彼の悪意のないこの手の冗談はもう慣れているが、それでも、透吾の心は言われる度に傷つけられていた。
「だからいないって。今は仕事が忙しいしさ」
透吾は答えとしていつもしている通りに、虚勢を張った。
「仕事が恋人なんて、言うなよ」
佐藤が言った後、着いたエレベーターの扉が開いた。透吾は会話を途切らせることができ、ほっとしていた。佐藤や、エレベーターを待っていた他の人たちと一緒に、箱の中へ体を滑り込ませた。定食屋へ着いたら、自分から話題を変えて話し出そうと、彼はその内容を考え始めた。
支配されつつあることに、怒りを感じる。
しかし、清太に再び逢いたいと願う心もまた、日ごとに募っている。
彼との交合を、夢のままにはせず、現実にしたいと願う心が・・・。
啓二は今まで、奪ったことはあっても、奪われたことはあるのだろうか・・・?
――奪いたい。この腕に、清太を抱きしめたい。脱がせて、組み伏せて、何もかも自分のものにしたい。
その日も、次の日も、透吾は仕事が終わると、あの街へと向かった。
彼がいつ店に現れるのかは分からない。だから、通い続けるしかない。とにかく、清太に再び逢いたい。話をしたい。あの可愛らしい声を聞きたい。誘うのは、それからだ。
数日は棒に振ったが、ある日やっとその機会を得た。
初めからカウンターではなく、この間清太がいたテーブルの近くの席に、陣取っていた。透吾が見つめる、少年が触れたであろうそのテーブルは初めから空いていた。そして視線をドアに移す。
少年はついに現れた。この間同様、男たちの驚きと飢えの視線が彼を包む。多くの視線に囲まれ、少年は歩く。透吾が見定めていたテーブルに着いた。すると、また取り巻きの少年たちがわっと寄ってきた。透吾はそれを見ながら、立ち上がった。ビールの入ったグラスを持って、清太のほうへと向かって歩く。
「悪いが、二人にしてくれないか」
いきなり割り込んできた大人の男に、取り巻きの少年たちは一瞬事情を飲み込めない表情をしたが、やがて一人が透吾の前に立ち、こう言った。
「だめだよ、この子は待ち合わせに来たんだから。そうでしょ? 清太くん」
終わりのほうは、清太を見やった。
「う、うん・・・」
清太も、戸惑いがちに答える。
「啓二さんとね。だから他の人はだめなの。分かった?」
少年は自信ありげに、自分より背の高い男に向かって、あごを斜め加減に上げて言った。
「話がしたいだけだ。相手が来るまででいい。何もしない」
「だめだってば」
少年は透吾の胸を押してどけようとした。グラスに入ったビールが波打つ。妙な使命感に動かされている、と透吾は彼の子供っぽさを心で笑うと同時に、苛立った。『護衛隊』とは、よく言ったものだ。
「俺はその子に聞いてるんだ。話すだけなら、いいか?」
透吾は軽く少年を押しのけ、テーブルを挟んで清太の前に立った。
「え、あの・・・。少し、だけなら・・・」
美しい少年は、一度合った目を逸らして答えた。
青年は少年たちを見やった。彼らは仕方なく、その場を離れ出した。去り際、先ほどの一人が「気を付けなよ」と清太に小さな声で告げた。
二人だけの空間がやっと作られると、透吾は安堵の息を吐き、グラスをテーブルに置いて向かいの席へと座った。少年の前にはまだ何もなかったので、透吾はまず聞いた。
「何にする? 飲むだろう?」
「うん、あ、はい・・・。じゃあ、お茶でいいです・・・」
相手が年上だからか、少年は敬語を使った。
透吾は近くの若いボーイにウーロン茶を頼んだ。
顔を正面に戻すと、少年は俯いて、膝の上で両手の指を組み合わせ、遊ばせていた。人見知りをする子なのか。
この間は私服だったが、今日は制服らしい。長袖の白いシャツに、臙脂(えんじ)色のネクタイを着けている。その臙脂の赤が、彼の白さを映えさせ、唇の赤さと呼応する。彼との距離は、あの晩よりも近い。伏せられた長いまつ毛に、夢での彼を重ね合わせた透吾の胸には、大きな漣(さざなみ)が立った。
「驚かせて、悪かった。そう、堅くならなくていい。俺のこと、覚えていないか?」
すると清太は顔を上げた。思い出そうとしている。しかし思い出せないようで、首を傾げている。その様子は可愛らしかった。
「この間、土曜日だったか、愁の隣にいたんだ。透吾っていうんだ」
それを聞くと、今度はああ、と初めて晴れた表情をしてみせた。透吾は嬉しくなった。
「じゃあ、愁さんのお友達? ごめんなさい、すぐに思い出せなくて」
清太は素直に謝った。やはりいい子なのだ。
「いや、いいんだ。あの時君を見かけて、気になったんだ。少しでもいいから、話をしたくなった」
「そう、ですか・・・。それで、話って・・・」
透吾は迷った。彼に今、警戒心を抱かせてはいけない。しかし、ぐずぐずしていては啓二が店に着いてしまう。
「啓二とは、何時に待ち合わせてる?」
透吾は腕時計を見た。7時15分前だ。
「7時ですけど・・・」
自分が付き合っている男を呼び捨てにされたことに、まず少年は驚いたようだ。不安げな目に、戻ってしまった。
「啓二さんとも、知り合い?」
「いや、知り合いってほどではないが・・・。少し知ってるくらいだ。この店の常連だしな。・・・いつも、彼は君を待たせてるのか?」
「いえ、ここじゃない時は、あの人が先に来て待ってることもあるけど、そうかな、僕が先ってことが多いかな・・・? あの人、時々仕事が忙しいから。でも今日は、僕が早く来たんだ」
その言葉を、透吾は快く聞けなかった。啓二をかばうのか?
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