『一人や二人じゃない』『一人や二人じゃ――』その言葉が、いつまでも耳に残る。
 彼は、ゆっくりと語り始めた。
「・・・お前のこと、入学の時から好きだったっていうのは、本当だ。でも、お前のことは巻き込めない、そう思った。・・・俺は、自分がゲイなのかバイなのか分からない。最初の相手は女だった。中学の時、彼女がいた。でも彼女と付き合いながら、男の体にも興味があった。それは、小さいころからだったけど、俺の変なくせで、大人になれば治ると思ってた。でも、治らなかった。彼女とは卒業と同時に連絡もつかなくなって、自然消滅した。高校入って、お前と逢って・・・初めて男と恋愛したいと思った。でも、お前は俺とは違うから・・・だから、友達のままでいようと思った。告白なんてできなかった」
 ここで彼は、喉を動かした。

「でも、お前と友達として過ごす間も・・・体はお前が欲しくてたまらなかった。俺は自分を必死で抑えた。『告白すれば楽になる』、そんな言葉が頭の中をよぎったこともある。それでも、できなかった。お前を傷つけたくなかった。それに、『告白すれば嫌われる』その言葉も、同時によぎったからだ。 でも、体のほうは・・・我慢できなかった。最初は怖くもあった。でも、俺はとうとう行動に移してしまった。その相手は、身も知らない大学生だった。俺は彼に抱かれた。初めてだったから、自分からはできなくて・・・。その後の俺は自分から抱くことも覚えた。携帯1本あれば、そういう奴と知り合う 機会はいくらでもある。相手は年上だったり年下だったりした。オヤジの時もあった」

『嘘だ・・・。全部嘘だ』
 俺は心の中で、倒れそうになるのを覚えながらそう呟いていた。
『こんなの信じない。信じたくない』
 それでも、聞かなければならない。彼は語りながら徐々に濃くなる闇の中で、沈痛な表情をしていた。
「何人になるか、分からない。でもそのうちに、俺は誰と寝ても何も満たされないことが分かった。体は満たされた。でも、心は・・・いつでもお前のことを考えてた。誰かを抱けば抱くほど、お前への気持ちは募っていった。お前と・・・愛し合いたいって」

「春樹・・・」
 俺は搾り出すように声を出した。その声は詰まっているようで、彼に聞こえたかどうか分からない。
「そうさ、俺はずっとお前を裏切ってた」
 彼は自嘲するような表情をしてみせ、顔を上げた。
「軽蔑するなら、してもいい。でも俺は、お前を大事にしたいから、だからずっと告白できなかったんだ」
「大事にって・・・そんなの言い訳じゃないか」
 何か彼を慰めるようなことを言いたかったはずなのに、感情が迸ってそんな言葉がこぼれてしまった。俺は苦々しげな顔をしていたに違いない。
「それなら、そんな、そんなことになる前に、なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ!? 俺のこと好きなら・・・。俺を傷つけたくないなんて言って、お前だって自分が傷つくのが嫌だっただけじゃないか!」
 違う、違う、俺が言いたいのはこんなことじゃない。
「俺を抱いたのだって、ほんとはただ体が欲しかっただけなんだろ? だから、いつもいつもやりたがってばっかりなんだ、お前は・・・!」
 違う、こんなこと、言いたくない! 違うんだ! だが言葉は吐き出されてしまった。
 そうじゃないのは分かっているはずなのに。心と裏腹な言葉は、さらに続いた。
「・・・もういい。俺の気持ちなんて、分かってくれなくても。俺だって、お前の気持ちなんか分からない。・・・お前なんか知らない!!」

 気が付くと、ドアを空けて廊下へと飛び出し、そのままホテルの外へ、駆け出していた。彼が追ってくるかも確かめず、走り、電車に飛び乗り、手すりに掴まりながら、暗いドア窓に映る自分の顔を見た。――何かが、頬を伝わっていた。


 自分の部屋に入るまで、頭を何かで殴られたような鈍い痛みを覚えていた。
 こんなはずじゃなかった。今日は、彼と気持ちを深め合うはずだった。なのに、こんな・・・。
 聞きたくなかった。聞かなければよかった。彼が俺と、関係が変わる前のことなんて・・・。
 裏切られてた。ずっと、裏切られてた。俺はずっと、彼だけを想ってきたのに、春樹は・・・。
 どうしてそんなことができたのか、分からない。
 俺の代わりに、いろんな男と・・・。
 まるで彼が、自分の知らない生き物のようにさえ思えた。俺の知っている春樹は、そんなことはしない。しない。絶対に・・・。
 彼は本当に、俺を愛しているのだろうか。入学の時から、愛してくれていたのか。
――だったら何故、もっと早く抱いてくれなかった?
 先ほど彼の前で叫んだことは、心とは離れたもののつもりだったのに、同じことを今は自分の中で呟いている。そんな自分が、嫌になった。すごく嫌だ。これが、俺の本心・・・? そうだとしたら、なんて醜いのだろう。
 部屋のカーペットの上に腹ばいになって、俺は自分の心も顔も、ぐしゃぐしゃになるのを感じた。

 彼から、春樹から、電話かメールが来るかもしれない。数時間経ってから、俺はそう思い携帯の電源をずっとつけたまま、布団の中でそれを握り締めて待った。
 謝って、くるだろうか・・・。謝って、ほしい。そう思いながら・・・。
 だが待てど待てど、彼からの連絡は何もなかった。明け方まで待ったが、そのうちに待ち疲れて、携帯を握ったまま眠りに落ちてしまった。・・・


 翌日は久しぶりに曇り空になった。俺は朝から一度も春樹と顔を合わせなかった。
 昨日の夕方のできごとが、そのまま再現されて夢に現れた。いや、それは記憶が蘇ったものなのかもしれない。どちらともつかないものに、俺は苦しめられた。春樹と俺の台詞とが、交互に現れて胸を締めつけ、偏頭痛を起こさせた。その痛みに呼び覚まされて、俺は目を開けた。夢であってほしいと痛みに耐えながら願っていたのに、そうではなかった。全て、昨日現実に起こったことなのだ。目の上には、俺の部屋のクリーム色をした天井があった。

――朝になっても、学校にいる間も、電話もメールも来ない。彼は謝る気がないのか? かといって、自分から3組に行く気にもなれない。
 そのまま帰ろうかと思っていた放課後、ふと昨日の享とのやりとりを思い出した。
 軽音部の部室は、確か・・・。そう思いながら、俺は廊下をいつもとは違う方向へ歩いていった。
 部室になっている、音楽室の横の元空き部屋を、ドア窓から覗いてみた。教室の中には何人かの部員がいて、それぞれエレキギターやベース、マイクを持って音合わせしているようだ。奥でドラムのスティックを握っている茶髪の男が、享だった。と、彼はドア窓から俺の姿を見つけ、すぐにドラムセットから離れて駆け寄ってきた。その顔は喜色満面という感じだ。

「やっほう! ほんとに来てくれたんだ! もっとかかるかな、って思ってたんだけど」
 彼はドアを開けるといきなり頓狂な声を上げて、俺を出迎えた。教室内は防音壁になっているので、ドアが開けられた途端ギターの音が耳に響いた。外は曇り空なので、部屋には明りがつけられていた。
「誘ったのそっちじゃん」
 俺は肩から提げたカバンの肩紐を直し、呆れて言った。
「でもほんと、嬉しいよ。永年の夢が叶ったって感じ」
「今日は見に来ただけだからな」
 俺は念を押しておいた。
「分かってるよ。まあ、入りなって」
 彼は俺の背中を押して、教室に入らせた。
「みんな、広瀬がやっと来てくれたぞ。あ、初お目見えの奴もいるかな?」
 と享は言い、俺はバンドのメンバーに紹介された。みんな男子だった。享だけ色の派手な茶髪で、他のメンバーはおとなしめの茶髪か、黒髪だった。享始め、みんな髪は短めだ。ボーカルの男は背が俺より低く、ツインギターの片方の奴は、一際背が高かった。春樹より高いかな、と一瞬思ってしまった自分に反省を促した。あんな、謝ってもこない奴のことを今思い出すなんて・・・。

「で、俺はまず何をすればいいの?」
 カバンを提げたまま立って、聞いてみた。
「ん〜、ええと、まずは俺たちの曲、聴いてみてよ」
 享は後ろ頭を掻きながら言った。ドラムセットへと戻り、スティックを手にした。
「あ、座ってていいよ。カバンも下ろしてさ」
 俺は言われた通り、そばにあった椅子の一つに座った。
 享のかけ声で、曲が始まった。体に響き渡る、ドラムやギターの大きな音。曲は、ロックのようだった。アーティストのライブも最近は行っていないから、バンドの生演奏はとても新鮮に聞こえた。飾りっ気がなくて、ピュアだな、と俺は曲や詞を聴いて思った。いい意味で学生らしいというか・・・。演奏も歌も、決して下手ではなかった。ボーカルの奴だってこんなに歌が上手いのに、なんで俺なんか呼んだんだろう。ルックスだって、いいほうじゃないか。女にもてそうな・・・。

 1曲が終わると、享はシンバルの余韻を手で止めて、ドラムの向こうから声をかけてきた。
「どうかな? 今の・・・」
「ん、よかったよ。上手いじゃん、みんな。ちょっと、びっくりした。・・・なあ、なんで中村くんがいるのに、俺なんて呼ぶわけ? すごい、上手いのに・・・」
 今まで文化祭なんかで見たことはあったけど、ボーカルの男とまともに話すのは初めてなので、俺は敬称をつけて呼んだ。
 すると、中村本人が答えた。
「実はさ・・・広瀬の声に惚れたの、俺もなんだ。お前、1年ん時合唱コンクールで歌ったじゃん? そん時俺、享にお前の声のこと聞いてたから、こっそり練習見に行ってたんだ。ほら、パートごとに分かれて練習してた時」
「え? こっそりって・・・。坂下、ほんとに?」
 俺は享に聞いた。1年の時からそれほど親しいわけでもなかったので、彼のことは名字で呼んでいる。
「え、まあ・・・。こいついつも教室の外の、後ろのドアから立ち聴きしてたから、お前、気付かなかったみたいだけど。俺が見に来てみろよって、誘ったんだ」

「そ、そうだったんだ・・・」
 こっちは初対面のつもりだったのに、向こうからは見られてたのか。そう思い、俺は恥ずかしくなった。
「俺、それまで自分の声に自信があって、誰にも負けないって思ってたんだけど、一度お前の声聴いたら、その場で負けを認めざるを得なかったよ。ほんときれいでさ」
 中村は、照れくさそうに告白する。
「だってそんな、練習でちょっと聴いただけなんだろ?」
「それでも、俺には分かった。中学ん時から歌ってて、今まで色んな学生バンドのボーカルの声聴いてきたけど、直感したんだ。『こいつの声はすごい』って」
 本気で言っているのだろうか。俺はただ、カラオケが好きでなんとなく歌ってるだけなのに・・・。なんの特別なレッスンだって受けてない。ずっとバンドで真面目に歌ってる彼に叶うはずないじゃないか。 


梅雨の星