「そんなこと言われても、俺全然自信ないよ。・・・でも、俺に歌わせたい曲ってどんなのなのかな?」
 俺は中村と享、どちらに聞くでもなく聞いた。
「え、興味あるの?」
 享は言葉の端から飛びついた。まるでわくわくしている、といった感じだ。
「ん・・・ちょっとね。さっきの聴いて、他のも聴いてみたくなって」
「おうおう、いい傾向じゃん。じゃ、聴かせるよ。あ、とりあえずボーカルはスッシーで」
 スッシー?
「あ、俺、中村晋(すすむ)っていうの」
 彼はマイクに向かいながら、頭を掻いてまた照れて言った。
 仲間だから、彼らはあだ名で呼び合っている、ということか。

 2曲目が始まる。俺をボーカルに据えたいという、その曲・・・。今度もロックだが、バラードだった。有名なバンドの、最近ロングセールスを続けて話題になった、恋の歌。俺の好きなR&Bではなかったが、この曲は俺も好きだった。シンプルな歌詞が胸に響くのだ。
 それにしても・・・。俺は思った。ちゃんと中村という保険をかけてあるんじゃないか。俺は、ついで・・・? もし気が向いたら、ってことなのか? それにしては、あれだけしつこく誘ってきているし・・・。どうも享の考えが分からない。

 曲が終わると、俺はそのことを享に質してみた。すると享はなんでもないふうに答える。
「そりゃだってさ、ボーカルと合わせての演奏だと、また違うじゃん? タイミングとか、曲のイメージとか、そういうの感じながら練習するにはやっぱ必要かな、って思って。歌詞聴きながらだと違うっしょ?」
「うん・・・まあ・・・」
 俺はすんなりと納得させられてしまった。
「でも、本命は広瀬だから。俺たち、広瀬のために練習してたの」
 スティックを片手に二本持ったまま俺の前に立ち、今度は強く言う享。
「ね、今の聴いて少しでもその気が起こったなら、明日も来てみてよ。待ってるからさ」
 最後の「さ」にアクセントを置いて、彼は笑顔で誘う。


 帰り道、俺は享に渡されたMDを手に持ち、眺めながら一人で歩いた。インデックスシールに、細い黒ペンで曲名が書いてある。
『よかったらこれ、家で聴いてみてよ。カラオケとボーカル入りと、二つ入れといたから。で、ちょこっと練習なんかしてくれれば嬉しいなあ〜、なんて』
 彼はそう言って、これを帰り際に渡したのだ。
 明るい奴だな・・・。
 俺は彼らといる間、昨日の春樹とのことを考えずに済んだ。思考の隙間を埋めるように、彼らの明るさと音楽とが入り込んできた。だがこうして一人になると、やはり痛烈に思い出してしまう。

『俺のこと、本気で想う気がないんだ』
 彼はそう言った。
 何故、そんなことを言うのか分からない。
 違う。想ってる。本気で想ってる!
 彼のほうこそ、俺のことを本気で愛してくれているのなら、他の男となんか寝なかったはずだ。
 俺は、後にも先にも、春樹しか知らない。なのに、彼は・・・。
「裏切られた」その気持ちが、また募る。
『人の気持ちより、自分が大事なんだ』
 その言葉も蘇ってきた。
 違う・・・。春樹のことはいつでも考えてる。考えてるさ! でも・・・。俺は彼を拒みがちだった。そのことが、彼をいら立たせてしまったのだろうか。自分を全部、受け止めてほしいって・・・。それでも、俺は怖かったんだ。完全にお互いが、”恋人”という存在になってしまうことが・・・。

 その日も結局、彼からの連絡はなかった。自分から電話かメールをするのも、気が進まなかった。
 俺も、感情に任せて彼にひどいことを言ってしまったのは分かっている。でも、どうしても、彼に裏切られた悲しさ、彼を許せない気持ちがあって、それが先に立ってしまうのだ。
 気を紛らわすように、その夜は享に渡された”練習用の”MDをかけて聴いた。

 そして翌日も、俺は軽音の部室へと脚を運んだ。まるで春樹を避けるように・・・。
 昼休み、廊下で彼とすれ違った。二つしか離れていないクラスなので、いつかは来る場面だった。彼は俺の顔を見たが、その場では何も言わなかった。彼の表情は、やはり気まずそうだった。だが俺が通り過ぎようとした時に、後ろから名前を呼んだ。このまま相手を行かせてしまうのはいけない、という焦燥感にも似た、何か言いたげな、その声。その声に俺は立ち止まりかけたが、学校で何が言えるというのだ。そう思い、走るように無視して通り過ぎてしまった。振り返りもしなかった。
 あの時、俺がホテルを飛び出した時、彼は俺のことを追わなかった。名前も呼んでくれなかった。その苦しさが、また俺を襲ってきた。

 享や中村たちは、快く俺を迎えてくれた。
「昨日MD聴いてくれた? ・・・どう、今日歌ってみる気なんて・・・あるとかないとか」
 享は冗談めかしながらも、遠慮がちに聞いてくる。
 俺は、また晴れた夕方の空を窓越しに眺めて考えた後、言った。
「ごめん・・・。まだそういう気には・・・。でも、曲は聴いたよ」
 彼――春樹とのことが解決しない今、人前で歌う気にはなれなかった。
 それでも彼らは気にせず、またバンドの曲――体育祭の打ち上げでやるという曲たち――を演奏してくれた。体に響く派手な曲でも、俺は癒された。


 そんなふうにして、6月に入った。晴れたり曇ったりの天気が続いていた。梅雨は、まもなくやってくるのだろうか。
 うちの高校も一応6月1日が衣替えの日になっているが、暑ければ5月でも夏服を着ていいことになっているので、一斉にという感じはしない。だが6月の校内は半袖で埋まった。
 体育祭の練習も、本番が近くなるにつれ多くなり、学年での合同練習もあった。3年男子は和太鼓の曲に合わせて、組体操と踊りが合わさったような演技をやることになっていた。男の力強さ、高校生の若さを演出するような、そんな内容だった。曲調は祭囃子ほど速くはなく、軽快というよりは厳粛な感じがした。

 俺も春樹も、享も中村も、彰や勝彦も、みんな同じ校庭に立って、練習に汗を流した。クラスの何人かで組を作ったり、全員で大きな輪や放射線など何かの形を作ったり、踊ったりした。俺は体育は得意なほうではないし、この演目があまり好きではなかった。なんだか古くさい、泥くさい感じがするからだ。男らしさを強調、という目的も嫌だった。それでも、練習はサボるわけにもいかない。
 そんな中でも春樹と時々目が合ったが、つい俺のほうから逸らしてしまう。
 こんなに彼から離れたことは、今までなかった。何故、彼からは何も言ってこない? もっとも、俺のほうから避けてしまっているせいもあるのだが・・・。
 お互い、自分から相手に連絡をすることに躊躇しているのか・・・。


 軽音部にはいくつかのバンドやユニット、ソロの奴もいるので、享たちのバンドの練習は部室だけでなく、近くのスタジオを借りて行われることもあった。俺はそれにもついて行った。高校生なので、みんなで貸し出し料を出し合って借りているそうだ。そこは駅近い雑居ビルの、3階にあった。
「それにしてもすごいねここ。ちゃんと設備が整ってるんだ」
 俺はある日スタジオに入って彼らの練習を見ている時に、こう言った。
 長方形のガラスを隔ててスタジオの向こうに、音を調整するためのブースもある。
「そう。ここ、学生バンドを応援してくれてるから、好きなんだ。安いのに色々揃ってるし、何しろ音がいい。1年の時から、すっかり常連だよ」
 享はドラムセットの後ろから、ドラムのスティックをくるくると空中に放(ほう)って回しながら言う。彼はドラムの音合わせをしていた。

「で・・・今日は? まだだめ? 歌う気ない?」
 彼は声の調子を変えて、少し真面目になった。
「うん・・・」
 俺は考えるように、腕組みをした。右手をあごのあたりにやる。
「ちょっと・・・1回だけ、歌ってみようかな・・・」
 そんな言葉が、自然に漏れた。
「え!? マジで!? ほんとに?」
 享はスティックを落としてしまった。俺は彼の目を見て頷く。
「やったっ! ついにこの時が! おい、みんな準備しろっ」
 かがんで落としたスティックを拾いながら、彼はメンバーに呼びかけた。ギターやベースの音合わせをしていた彼らも、慌てて楽器を構える。
「さ、言ったからには立って立って。ほらそっちに」
 パイプ椅子に座っていた俺を手招きし、マイクスタンドのほうへと促した。

 俺は言われるまま、ゆっくりと歩いてそこへ向かった。それまでそこにいた中村は、微笑んで俺に場所を譲った。換わりにそこへ立ってみると、とたんに緊張した。
「ほらほら、もっと肩の力抜いて」
 享は背後から、俺の気持ちを落ち着かせるように明るく声をかけた。
 俺は肩を二、三度動かし、深呼吸した。少し離れたところに、中村が見守っている。
「・・・いい? いくよ」
 そう言う享に、振り向いて目で合図を送った俺。
 そして、いつかのように彼のかけ声で、スローな優しい曲が始まる。
――イントロが終わるのを確かめ、俺は声を出した。――途端に、メンバーの空気が変わるのが分かった。・・・


 中村の拍手で、演奏が終わったことに俺は気付いた。続けて、他のメンバーも拍手する。
「すごい。俺がイメージしてたのより・・・すごいよ、お前」
 享はまだドラムセットの椅子に座ったまま、溜息をつくように言葉を吐いた。
「でも、あんまり声が出せなかった」
 俺は申し訳なさそうに言う。照れを隠すためでもあった。だが、バンドの音が大きくて、時々負けそうになったのは事実だった。やはり、カラオケで歌うのとは感じが違った。
「初めはみんなそういうもんだって。感動しちゃったもん、俺」
 彼は椅子から立ち上がり、俺のほうに近づいた。目を輝かせている。
「俺も、鳥肌立ちそうだった」
 ギターの、背の高い奴が言う。他のメンバーもそれぞれ感想を述べる。
「そんな、大袈裟だよ、みんな。やめてくれよ、恥ずかしいから」
「本気だって! あ、今の録(と)っとけばよかった〜!」
 享は頭を抱える。
「そんな、享・・・」
 俺は軽く苦笑した。

 と、俺はつい彼を下の名前で呼んでしまったことに気付いた。「あ・・・」という顔をしていた。みんなも一瞬きょとんとしたが、呼ばれたほうはすぐに嬉しそうな顔に戻った。
「何気まずくなってんだよ。いいよ、享で。俺、嬉しい。やっと気持ちが通じ合えたな、みたいな」
 彼は肩をそびやかして、最後のほうはまた冗談めかしてそう言った。
 俺は気恥ずかしさでいっぱいだったが、そんな彼の言葉に胸が温かくなってもいた。
――友達って、こういうもんだよな・・・。
 そんなことを心に独りごちていた。
 俺が求めていた、かつては春樹との間にもあった、友情・・・。


梅雨の星